父が亡くなり、船橋市議会の歴史について語る方々も減ってきました。

更には、父がお世話になった藤代七郎市長のお孫さんが議員になる時代になってきました。父が勲章を賜った時に記した記録を掲載させていただき、私の父の側から見た船橋市議会や政界についてを残させていただきます。

 ご参考までに。ちなみにこれを書いた時、私は市議会議員2年生でした。



渡辺・藤代・大橋 三代の市長と共に(3)


 昭和56年7月19日、第14代船橋市長として大橋和夫氏が就任しました。同年、私は第29代船橋市議会議長として6月8日に就任していました。


 私は市長選挙では対立候補の運動をしましたが、それはそれとして、選挙後は一日も早く市政を正常に戻さなければならないと考えていました。藤代市長病気のため市長不在が長く続いたのですから。そこで、市長が初登庁すると、私は議会の色々な重要事項がありますので、市長に面会する場合、先客がいても最優先にしていただきたい、と申し入れました。


 大橋市長については県教育長時代に来船されて藤代市長と会食していることを思い出しました。と、申しますのは藤代市長時代に、長谷川さん県の教育長が今晩くるけど、一緒にこないか、と言われたことがありました。多分、藤代市長が県会議員の時からの関係ではなかったかと思います。


 大橋市長も県の行政に長年関わってこられましたが、船橋市は初めてなので大変だったと思います。市長になられた当初はよく市長、議長共に招待されました席で話す事がないので、午前中招待されたことを話されていました。なれないので大変だなと思ったことがあります。しかし、そのようなことも、一回目の市議会を経験し、9月定例会で自治省より招へいした野村誠一助役を迎えてからはなくなりました。大橋市長は自治省より千葉県庁へ出向し県教育長を歴任され、また、野村助役も同じような経歴を経た東大出の自治官僚です。


 野村助役については、当時船橋市議滝口三郎が以下のような話をしていました。「今度来た助役は若いけど頭がいいし切れるぞ。俺達漁業組合で埋め立て補償で県に交渉に言った時に、最後の交渉が両方ともエキサイトして決裂しようとした時に、若けえのが入って来たのでなんだこの野郎と思っていたら、職員に県規則集のページを示して、見事解決したんだよ。若いのに切れるなあ、すげえなあ、と思って帰って来た。今日、議会で就任挨拶したのを見て、どっかで見たと思って、今、助役室へ入ってその話をして確認して来た」と。そして船橋市は野村、澤井安男、大野博見、清矢守、と自治省出向の東大出のキャリアが大橋市長を支え、現在は同じく生嶋文昭助役が藤代市長を支えています。自治省出身のキャリア官僚群、そして市の建設局長も建設省出向のキャリアを招き大橋市政を進めました。


 渡辺、藤代両市長の場合は市長、助役、部長により政策を立案し、それを部下がまとめ行政に組み込んで行きました。したがって、市のこれからの政策は部長たちと話していると次に議会に提出される諸議案が大体把握できました。事前に議会側の意向もトップに伝え異議あるときは、その時点で調整して議案として提案されました。大橋市政になってからは、段々とこの傾向がなくなり、トップダウン方式になっていったように思います。


 議会でよく与野党側より規則の問題で質問されましたが、渡辺、藤代市長時代はよく理事者側かタジタジとなる場面がありました。大橋市長になってから、野党の規則の質問に対して理事者側が堂々と反論するのをみる時にさすがと思うことがしばしばでした。大橋市政の功績は大きいものがたくさんあります。長津川の河川の格上げ、国から700億円の助成による海老川の溢水対策の完成。このことは市長就任早々海老川が溢水して、市長が長靴で現地を視察したことを記憶しています。


 大橋市長も二期目になると船橋市政を熟知し、トップダウン方式が益々顕著になりました。市長は常々、議会と市長は車の両輪であると言われておりました。私は与党と市長の勉強会で、最近は議員の知らない間に諸政策が立案され印刷されてから説明されるが、それでは駄目ですと申したことがあります。議会の与党議員間でも議会に話もないことに話題になることがしばしばでした。


 理事者側は、与党体制がまとまっていることもありましたから、少し安心感があったのかもしれません。議会側も、市側に引っぱられていたように思います。これは我々古参議員の責任であったかも知れません。


 市長に対する評価は真面目に行政に取り組んでいることに異論はありませんでした。しかし側近に利用されている批判はたえずあったことは確かです。大橋市政の4期目に側近政治の声が高くなりましたが、この件については次のように理解しています。


 側近であろうが誰であろうがよい提案については取り入れる、それが市長の姿勢であったと考えます。それが病院問題を始め諸々の案件でも言えると考えます。トップダウンと4期目の自信により日本式の根回しをしなかったのが欠点でした。


 このころになると車の両輪でなく片輪だけが前に進み議会と言う片輪が遅れているような状勢ではなかったかと考えます。相談がないと言うのが一部の議員の批判でした。また16年間の間の教育委員会内の派閥の抗争、人事の問題等が一挙に吹き出たようでした。大橋市長の市政に対する批判ではなく別の面の批判が大きくなったような感じがしました。


 しかしスポーツーつみても大きく船橋を発展させ、知名度を高めたことはご案内の通りです。ともあれ、渡辺、藤代、大橋、3代28年間を顧みますと、経済成長は渡辺、大橋市長時代。景気の低迷時は藤代市長の時。予算の減額補正、市職員の給与引き下げ。現藤代市長のこの不況、藤代親子のなにか因縁を感じます。今でも思いますが、不況の中でも、病気が回復して藤代七郎市長に市政をもう少し長く続けて手腕を見せてほしかったと思うのは私だけではないと思います。


 今思うのは大橋市政で議会対策をトップがやり、甘えていた部課長が現藤代市政の下で与野党伯仲の今、対議会の対策が出来るかどうか。


 私か議席を得た当時は市職員も少なかったがよくまとまっていたように思います。収入役竹下氏のように部課長ににらみをきかし、議会対策もうまい理事者がいないのが気になります。


 昔はよく議員が部長のところで話し込みました。また部長もふらっと議員控え室へ来て話し込む風景がありましたが、今はどうか知りません。現在の藤代市長の与党として議会をまとめる人、部課長をまとめる人が一日も早く実現することを期待するものです。


 若い議員の選挙公約等をみても、自分達の育った環境問題等、社会で問題になっていることに熱心ですが、議員のもう一つの使命、船橋市政を大きな意味で推進することを忘れているように思えます。


 藤代市長は3期引退を公約していますが、3期目には大きなランが咲くように、与党議員諸侯と部課長の奮起を祈ること切であります。