父が亡くなり、船橋市議会の歴史について語る方々も減ってきました。

更には、父がお世話になった藤代七郎市長のお孫さんが議員になる時代になってきました。父が勲章を賜った時に記した記録を掲載させていただき、私の父の側から見た船橋市議会や政界についてを残させていただきます。

 ご参考までに。ちなみにこれを書いた時、私は市議会議員2年生でした。

渡辺・藤代・大橋 三代の市長と共に(2)


 4期に及ぶ渡辺市政は衆議院議員川島正次郎の死去により渡辺市政がゆらぎ始めました。市政に長年君臨した渡辺三郎が強力に自分の周辺を固めて船橋の政治を自分のものにしておいたならば、もう少し長く市政を担当できたかもしれません。しかし自ら進んで取った船橋市長でなく川島、松本に押され実現した市長でありました。


 そこヘライバルとして藤代七郎が現れました。藤代は市議、県議時代に市役所内に培った藤代支持者、その代表として近藤一夫部長を中心とした船橋市役所職員の藤友会と、市民で作る南風会を中心にして盛り上がる藤代七郎市長の実現の声は藤代七郎の人間的魅力にもよります。渡辺三郎の引退への声となって来ました。そこで渡辺三郎支援者の役員、弁護士の阿部三郎、徳田稔と南風会幹部染井一郎、古川末夫、岩佐喜一郎、。宇佐見正巳と三田浜楽園で会合を持ち、話し合いの上、渡辺三郎市長の引退が決まりました。


 藤代は昭和50年4月、共産党などが押す岩崎を大差で破り第12代船橋市長に就任しました。この時の選挙で市長選対の若手、林静誠、桑島、宇佐見、河村、米井等が作った「あなたと語りたい」の標語ほど藤代の庶民性を表しているものはないと思います。


 藤代は旧豊富村古和釜の生まれで、山林等何百町歩の大地主の長男。大旦那の風格があり、庶民的で決して威張った所もなく誰でも同じように接していました。4月、市長として市役所に登庁しました。藤代市長の初仕事はオイルショックの影響で約40億円の減額補正から始まりました。人口は42万人にふくれ上がりやがて50万都市になるだろうと推測されました。


 後に助役になった腹心の近藤一夫以下藤友会のメンバーが市長を中心に市政を進めました。渡辺市長時代からウィスキーが市長室にあり、藤代の市長室にもウィスキーが置いてありました。当時は市長室と議員の控室は同じ階にありました。時々、市長室で飲みながら、もちろん執務が終わってからですが、議員が飲みながら話しをしているのを見うけました。大橋市長になってから市長室からウイスキーは消えましたが。私は藤代派の数少ない議員として、市長交代のしこりをなくすため一生懸命でした。藤代が市長になった当時は渡辺市長派がかなりいました。


 あるとき新政会の控室に入ったところ、藤代の茶坊主が来たと言われた事がありました。役職の割り振りで他会派が納得しないので私の役職、監査をあげて調整した事もありました。議会は藤代市長の人柄にもよりますが与・野党を問わず支持がありました。


 社会党の中台議員、公明党の野村議員、民社党の池田議員などです。それともう一つは藤代市長は大きな財力がありました。藤代が市議時代の話しを副議長野村武史、元毎日のピッチャーで船橋市議会の野球部のキャプテンに聞いた話。市議会野球大会で勝ち上がり熱海で対抗試合を開催されたことがあった。野球部にあまり予算がつかなかったが七ちゃんが不足分全部出してくれた。金がなくなったので負けて帰ってきた、と。


 もっともパシフィックで優勝したプロピッチャーの早く大きく曲がるカーブに素人がさわる筈もありません。勝つも負けるも自由に出来たのでしょう。山梨市と毎年野球の親善試合をしていましたが山梨市の人がバットにさわれないとなげいていましたから。藤代市長は威張らないので人気があるのが当然です。


 藤代の政治をみると、よく部下の話を聞いておりました。また下から持ってきた案をよく検討していました。


 そして、医師会と話し合い医療センター構想、中央卸市場、庁舎建等、大型プロジェクト案が出てきたと思われます。


 その中で唯一の失敗はゴミ焼却場建設でした。余りにも先取りして斬新的な施設を作りましたが十分に機能しませんでした、市政を担当して6年目のこれからと言う時に病に倒れました。


 議会は一年間、毎定例会で市長の病状報告があり、その度にもう少し待とう再起を待とうと与野党あげて待ち続けました。このことは藤代の人柄以外なにものもないと思っています。「南」は藤代の実家の屋号ですが正に南風の人でした。