父が亡くなり、船橋市議会の歴史について語る方々も減ってきました。

更には、父がお世話になった藤代七郎市長のお孫さんが議員になる時代になってきました。父が勲章を賜った時に記した記録を掲載させていただき、私の父の側から見た船橋市議会や政界についてを残させていただきます。

 ご参考までに。ちなみにこれを書いた時、私は市議会議員2年生でした。

7回の市議選を経験して


 7回の市議選を経験して、選挙に対するノウハウが段々と分かるようになりました。そしてその対策も私なりに立てていきました。立候補して、一番大切なことは当選しなければなりません。それには、第一に情勢分析です。県議選、知事選、衆参議員選、その他諸々の選挙も皆同じです。


 市議選が話題になってくる時期は、船橋では市長選が市議任期の中間に行われますので、その年の暮あたりから市議同士の話題の中に、新人の噂が飛びかいます。新人が市議選に出馬するならば、2年位前から意志表示をして準備をするのが普通です。


 選挙の前年の8月になりますと早い立候補者は事務所を構えます。その時点で立候補確実との判断で立候補者の数の中に入れて、その地区の現市議は対策を考え、自派の支持者固めに入ります。それに刺激されて他市議もそれを契機として徐々に会合を持ち自陣の支持者が他候袖に流れていないか確認をします。


 12月に市議会の定例会が開かれますがそのころになりますと、それまでの間に噂に上った候補者の身上書的な略歴、有力な支持者、支持母体等の分析が始まり、その地区に一番近い市議により新人の強弱が語られます。


 その場合、新人の隣の地区の現市議の受ける影響、あるいはその新人が県会議員、衆・参議員の派閥に属しているか、新威とかあるいは人間関係の中でつながりがあり票がどの位新人に流れるのか等々、議会の控室の中で情報として話題になります。


 その情報の中で自分の票田に自分の関係する県議、国会議員がいると、新人つぶしの工作がなされます。


 そのころになると選挙管理委員会も来年の選挙の掲示板その他の準備のためと、予算計上の算出のため情報収集にあたりその情報は段々と正確さを帯びてきます。しかし依然として出馬未定者や泡沫候補等がおり人数の確定は出来ません。


 9月定例会が終わり10月に入ると決算特別委員会が始まります。そのころになりますと、1期、2期の市議達が選挙活動に入ります。特に2期目が一番危ないと言われている市議は12月の定例会には支持者の忘年会に出席のため欠席する事もあります。


 12月の第4回定例会の最終日は保守系市議による恒例の忘年会も早く終わり他の忘年会へと出かけます。それと同時に自分が当選するにはどうしたらよいか、来年の市会議員選挙が果たして何票あれば当選圏内に入るのか。自分はどの辺りの順位にいるか全体の票を考えます。そして泡沫候補は何人位か本当の競争相手は何人か、共産党、公明党は票割りにより100パーセント当選するとの仮定でその人数の中そして何回も上位当選した保守系市議をプラスして、残った人数のどの辺に自分の順位があるかを検討しながら選挙対策を練っていきます。


 立候補して落選しない最低得票数は幾票かと計算です。昭和58年の船橋市議会議員選挙を例にあげて、数字で説明してみましょう。


 この年の船橋市議会選挙は大きな特色がありました。当時船橋市議会は与党、野党の議員数は数の上で拮抗していました。選挙結果によっては保守革新の差が逆転するのではないかと選挙前はささやかれていました。この58年のもう一つの特徴は立候補者が76名ありました。未曾有の大激戦になりました。船橋市の市議選でこのような大勢の立候補者はありませんでした。


 58年は急激な人口増により50万都市にふくれあがり、有権者は33万2,418人でありました。58年は私が市議に5期目のときでした。過去4回の平均投票率は61%でした。そこで市会議員が過去の経験に照らして最低当選ラインを割り出しました。その計算方法は当日の有権者数31万9,661人を投票率で割ります。


 この時には確か60%の投票率として割りました。計算しますと191,463票と答えが出ました。それを約20万票として、立候補者で割りますと、2,631票と答えが出ました。2,631の数字は当選確実の数字です。


 過去の選挙を今のように計算してみますと、立候補者で予想投票率を割りますと、大体当選順位は真中に近い所にあります。しかし、新人の有力な強い候補の立候補で各陣営とも緊張し選挙運動が例年に比べて早めにスタートし選挙がしまってきます。私共は立候補者が多いのだから票の取り合いになり最低当選ラインは下がり、58年の投票直前予想は2,100票とれば当選とよんでいました。


 各党、各会派とも以上の計算を基礎においたと思います。ところが開票結果は52番目が2,219票で共産党の川崎議員でした。予想より200以上最低ラインが上がりました。多分共産党もそのように票読みをしたように考えます。共産党51(当)、52(当)、共産党53落選、共産党54落選で8名が3名になりました。私はこの年2,758票、28番目でした。


 因みに58年以降で70名以上立候補した年は平成11年4月の選挙で77名でした。前述した計算方法で2,500票が当確ラインでした。