表紙

 父が亡くなり、船橋市議会の歴史について語る方々も減ってきました。

更には、父がお世話になった藤代七郎市長のお孫さんが議員になる時代になってきました。父が勲章を賜った時に記した記録を掲載させていただき、私の父の側から見た船橋市議会や政界についてを残させていただきます。

 ご参考までに。ちなみにこれを書いた時、私は市議会議員2年生でした。


 はじめに

 多くの友人、知人は県会へ、あるいは国会議員として進みました。成功した人もいればまた志半ばで敗れ、消え去った人もいます。この間、多くの政治家の栄枯盛衰を見ながら船橋市議として七期二十八年間、船橋市政の激動の時代に身を置いた私には色々に感じること、思い出が多くあります。この機会にそれを綴り冊子にして皆さまに差し上げて記念品にと思いました。


 昭和四十二年からわずか三十年の間に、当時の船橋の政治を知る多くの方たちが亡くなりましたが、それによって様々な歴史が語られぬままに消えて行きました。そのように思うとき、せめて私が身を置いた政治の流れの一端でも書き残してもよいかなとの思いがありました。もちろん、自分史でありますので、記憶に誤りがあるのはお許し下さい。また、文章中、敬称を略したことについても御寛容下されたくお願い致します。


 市議会議員への道


 昭和四二年二月、大雪の日が私の以後二十八年間に及ぶ市会議員への第一歩でした。


 私は昭和四年四月、築地の聖路加病院で生まれました。母が世田谷三軒茶屋で呉服屋をやっており忙しく、二階への上り下りでお前が育たなかったと言われたそうです。その年、一人娘の母が再度震災にあうことを恐れ(九月一日母は三越で買物をしていた)呼び戻されました。


 私もそれ以来千葉郡二宮町三山に住んでいます。従って、私達家族は三山に昔より住んでいた訳ではないので、村人達から見れば新住民であったと思います。


 三山で呉服屋兼雑貨店を始めた父は、職業軍人でしたが昭和四年の軍縮で退職し、シンガーミシンに勤めていました。後に、父は陸軍被服廠に勤め、終戦を迎えました。私は大学を卒業し日本橋で会社勤めをしていましたが十二指腸潰瘍で退職し、父が当時習志野自衛隊に衣料品店を出店していましたので、その手伝いをしながら体力の回復を図っていました。その後、店の方が新たに喫茶店を開店したのを機会に専業になり、東京に戻ることをあきらめ腰をすえて働いていました。


 昭和四十二年の三山は昭和二十八年八月船橋市に編入され、船橋市三山に住所変更されました。船橋の一番東にあり、旧二宮町時代より一寒村でありましたので、首都圏でありながら土地価格も安く、山や畑は少しづつ造成され家が建ち始めていました。いわゆる、小団地が幾つか出来上がりつつありました。もちろん、市議会議員は選出されていませんでした。薬円台、あるいは前原地区、その他の議員の草刈り場でありました。


 昭和四十一年に三山地区の農業委員をしていた有力者が市会議員に立候補の準備を進め、私共も皆期待していました。三山地区には十二年間も市議が不在でしたから。ところが、四十一年十一一月、事故で突然亡くなられました。三山は再び草刈り場になる様相を呈してきました。


 私の長男(現船橋市議二期)が三山小学校に入学した年です。当時、小学校への道路は未舗装で、再三の地元の要望にもかかわらず依然として実現されませんでした。小学校の隣りのすずらん幼稚園に通園していて、雨の降った時の関東ローム層の道の悪さに何とかならないかと思っていました。すずらん幼稚園々長薄永先生は「船橋のチベット」を痛憤されていました。もし、ここで今回も三山から市議が出なければ通学路の舗装は出来ないとの思いが募るばかりでした。当時三山はバス停に下駄箱が置いてあり、雨の日など、通勤者はバス停まで長靴で来てそこで短靴にはき替えて出勤する状態でした。


 私は三十八歳でした。三山には血縁、地縁は一人も居ません。唯一女房の方の遠い親戚が一軒あり、東京の下谷へ通勤していました。小川守氏(後の後援会長)です。相談に行き話し合いの結果、立候補するなら応援するとの力強い励ましを頂きました。四十二年一月二十日のことです。地元からと考えて農家を回り始めましたが、初めて囗をきく人がほとんどで、私の顔も知らなかった位です。それも当然なことで、私も兄も村の人達からみれば初めて見る顔のように思えるのも当然でした。


 昔、兄に三山の人、誰か知っていると聞いたところ、知っているよと白慢げに答えました。聞きますと「カジヤのおじさん」と答えました。毎日千葉中学へ行く時、前を通ると仕事場にいるからと答えました。兄は小学校は駒澤小学校、千葉中学、旧制山形高校、千葉医大を卒業して軍医として満州へと行きました。私も終戦後は佐倉中学、武蔵大学へ行き、就職しましたので相手にされないのは当然です。母の同級生はいましたが、父は東京・小石川の生まれです。


 村の人たちとの交際は普通だったと思います。そんな状況の中で今までの近辺市議との密接な関係がある農家の人達に支援を求めるのは無理なことでした。支援をお願いするのは最近三山へ移住して来た人たちだけでした。私の選挙運動は自薦で、唯一人小川さんの応援から始まりました。冒頭述べましたように二月の雪の日からでした。


 長靴をはいて新しく出来た町会、自治会の各長の戸別訪問より始めました。市議選の投票日まで五十日足らずでした。四月十三日は私の誕生日。選挙はその日を中心に二週間でありました。各自治会長、町会長に面会し趣旨を話しますと、それぞれの人が長に選ばれるだけの識見があり、町会の環境問題、特に劣悪な道路事情に憤満やるかたない思いを行政に向けていました。


 ある町会長は「主義主張はなんでもかまわない、立候補するなら誰でも支援する」と言われました。


 当時は雨が降ると、砂利を市から支給してもらい、道路を穴埋めする様な状況でした。農家の人たちは別に雨が降っても困らないし、例えば、街路灯を付けましょうと言って、も暗くなれば帰るからいいよと相手にしてくれませんでした。一方、通勤者は真っ暗な中の悪路を帰る 苦痛には耐えられなかったと思います。私は毎日毎日歩き続けました。そして幸運に恵まれました。  


 新しく出来た自治会で二宮神社近くに旭が丘自治会がありました。自治会長の吉村さんに会うと「私の自治会に選挙に詳しい人がいるので紹介しましょう」と言われました。そして、日大雄弁部出身で古田日大総長派で日大生産工学部の学生運動対策をされていた渡辺瑞男氏を紹介していただきました。色々とお話を伺うと学生当時より雄弁部の人たちと各種の選挙運動、特に宣伝カーの経験者でありました。そこで事務所の総指揮を頼み、ポスター、投票日までの運動、選挙対策等をお願いしました。渡辺氏には学生時代の雄弁部の友人を数人応援に連れてきて私の家に泊まり込みで運動していただきました。その中の一人が日大雄弁部出身の田久保尚俊氏(現県会議員)です。


 選挙事務所には無名の新人のため、為書一枚なく、国会議員の先生にコネが取れないかが懸案の一つになりました。田久保尚俊氏が遺族会の関係で衆議院議員臼井荘一先生を存じていたので千葉の登戸の家に行き、田久保氏の紹介で、面接していただき激励を受けました。後日、藤代七郎市長(臼井氏の船橋の責任者、当時市議会議員)に聞いたところによりますと、臼井先生より連絡を受け「感じが良さそうだから面倒をみてみよう」と伝言があり藤代先生も了承したよと言われたいきさつがあったようです。


 選挙事務所を開きましたが村の人たちの陣中見舞いはなく、私の事務所には三山、田喜野井の新自治会町会長始め各町会の皆さんが事務所に詰めている状況でした。三山の人たちから見ると泡沫候哺であったようです。私自身、マイクを握ったこともなく、まして選挙演説等も初めてのこと。すべて渡辺、川久保両氏より指導を受ける様な状況でした。長男大(まさる)が卒園したすずらん幼稚園が応援してくれましたが、渡辺氏にお母さんたちと握手するようにと言われましても、はずかしくて出来ません。第一、候補の私は「長谷川先生」と呼ばれることが何となく面はゆい感じでした。


 事務所は酒は出さず、クリーンな選挙をスローガンに選挙運動に入りました。宣伝カーに新町会長・自治会長が乗り、熱気あふれるものがありました。私は選挙期間中三山以外は知りませんので三山の二十二ヶ所で朝、晩、毎日「三山には十二年間市議が出ていません。もし私か当選させていただかないと道路や学校、あらゆる問題は解決出来ません。船橋のチベットをよくしようではありませんか」と訴えました。それと同時に宣伝カーでは日大雄弁部の人たちが訴え続けました。特に雄弁部の土屋さんが宣伝カーで三山中を走ると三山の人たちが聞きほれたとも言われました。土屋さんは後年、北海道で道議会議員になられました。私は選挙中も依然として泡沫候補でした。渡辺市長候補の宣伝カーが来ると(当時渡辺市長は三山の支持者が多かった)後へ続けば少し票が貰えるかと、宣伝カーで追いかけるとどんどん逃げていく状態でした。


 終盤には各町会の熱心な応援で盛り上がって来ましたが、依然として旧三山はなんの反応もありません。しかし表面上はそのようにみえただけであったような気もしました。母の関係、また心ある人も態度で表面に出せないだけのようでした。開票結果は一七五二票、ちょうど真ん中での初当選でした。


 泡沫候補の私が当選すると予想した人が二人いました。市議候補と元市議の二人でした。一人は佐藤佐平候補の責任者で前市会議員林さん。もう一人は西船より立候補した峯川佐一郎さんです。後日聞きましたところ、林先生は現職の時、三山に多くの票があり、佐藤候補の票を取りに三山へ、峯川さんも同じように三山へ来たそうです。ところがかつての支持者から今度出た新人が毎日朝晩同じ所で三山を良くしようと訴えている、今回は地元の人に入れさせて下さいと断られたそうです。当選証書を交付する日に市役所へ行きましたが市職員を誰一人知りません。市役所に入るのもその日が初めてのことでした。私の議員生活の第一歩はそのような状態から始まりました。当選証書を交付されて、藤代七郎先生の所へ御挨拶に行くと、臼井先生より連絡があったこと、そして一緒にやりましょうと言われました。


 この機会に昭和四十二年ごろの船橋市の政治の流れを記しますと、自由民主党、日本社会党、民社党、日本共産党それに昭和三十八年の統一地方選挙より議席を得た公明党、保守系無所属の四十四議席でありました。保革の比率は保守二十六議席、革新十六議席でした。保守が安泰の時代です。昭和四十二年五月に議会に席を置いた時の市長は第十代渡辺三郎市長であり当選三回目でした。渡辺市長は政界の大物、自民党副幹事長の衆議院議員川島正次郎の川島派に属していました。川島先生を政界に送り出した人たちに第五代船橋市長松本栄一氏もあります。松本先生始め多くの川島ファン、例えば第二十二代船橋市議会議長藤代正路氏に話を聞いたことがあります。尊敬と親しみを込めて「若い時は川島先生の選挙を一生懸命やりましたよ」となつかしそうに話されていました。また、三十二代船橋市議会議長小川新之助氏も同様に「川島のおやじが大森にいてよく正月に遊びに行ったよ」とも語っていました。


 川島先生は東京市の課長時代に、昭和通りを作った大風呂敷の東京市長後藤新平に可愛がられたと聞いています。川島先生と船橋市の結び付きは、当時東京市民の汚物を衛生局の運搬船で船橋海岸へ運んでいた関係だと考えられます。戦後は本八幡タクシーの役員にもなっていますので、さらに縁が深くなり松本先生の強力な支援で政界へと進まれたと考えられます。また、川島先生は母上が浦安の生まれなので犬養首相が市川の松澤氏に川島氏を千葉県より衆議院へ出してくれと依頼されたとの話もあります。渡辺三郎氏は、川島先生の金庫番と言われていました松本栄一氏の推薦で、昭和三十四年の統一地方選挙で高木市長と争い、当選しました。私は高木市長さんにつきましては、医師でかなりの硬骨漢であったと知る人に聞いたことがあります。


 渡辺市長は毎日新聞の記者で船橋商工会議所に籍をおき、川島先生、松本先生に認められ市議会議員に当選、その後昭和三十年四月に県会選挙に自由民主党より出馬し、トップ当選をしました。長身で、スマート、いつも笑顔を絶やさない市長でした。昭和四十二年の市長選挙では、本町で薬局を経営し体育協会会長の右島四郎氏、昭和四十六年の選挙では共産党の光成秀子氏に勝ちました。


 とにかく、私か議席を得た昭和四十二年は川島王国と言っても過言ではなかったと思います。千葉県一区選出の自由民主党衆議院議員は三名いました。千葉県は保守地盤が強く三人が当選していました。昭和二十七年より出馬した臼井荘一氏、昭和二十八年より出馬した始関伊平氏です。議席を得た昭和四十二年は川島先生を中心に臼井、始関両先生の戦いでした。昭和四十二年になりますと公明党の上林氏が出馬し保守王国を脅かしました。臼井先生と始関先生は昭和四十二年は二人とも当選しましたが、昭和四十四年十二月、五十一年十二月の選挙結果は臼井先生が当選、始関先生落選、四十七年十二月、始関先生が当選、臼井先生が落選でした。


 昭和四十四年十二月の衆議院選挙は忘れる事は出来ません。


 ここで船橋市における両氏の勢力について記してみます。臼井先生は千葉市出身で市議会議員を経て衆議院議員になりました。船橋では遺族会を中心に、市議では藤代七郎氏、宇佐見正巳氏、三宝社長岩佐氏等が支持者の中心でした。


 始関先生は資源庁長官等を歴任され、当時船橋海岸の干拓事業を起こそうとして、漁連関係の人が中央官庁の始関氏と結びつけたのではないかと言われています。しかし海岸の潮の干潮による遠浅を利用した作物栽培は失敗しました。そこに読売新聞の社主正力松太郎氏が乗り込み、その土地に復興事業として船橋競馬場が作られ、山梨財閥である丹澤善利氏がヘルスセンターとして進出したのでしょう。そのころから千葉県の海岸埋立て工事が始まり現在に至っているのではないかと思います。そのような関係で始関先生は、船橋海の事業に関係した人々を足場にして勢力を伸ばし、日軽興業社長徳田稔氏、医師会の栗原鉄臣氏等が始関派でした。


 昭和四十四年以後の選挙は定員四名の中で、社会党一、公明党一、自由民主党二でありました。それ以後の衆議院選は定員が五になりました。船橋は革新勢力が強く共産、公明は定位置を確保し、残る三名を保守が争う図になりました。いずれにしても、船橋は四十万票の大票田なので船橋の得票数によって当選が決定すると言ってもよかったと思います。現在は選挙制度が変わり、トップが当選なので昔のように保守二名が争えば他党にさらわれるのは確実です。


 県議補欠選挙、市議の補欠選挙いずれも共産党に持っていかれてしまいます。