勉強しないヤツはダメだね。
何を言いたいか。
まさにズバリです。決して私が勉強しているよと言いたいのではありません。しかし、「あなたは何をしたいのですか?」と申し上げたくなってしまう事案に最近はよくぶつかります。「長」のつく肩書きが欲しいと思われる人がものすごく多いのです。だったら、勉強しろよ。と。何も、政治学の勉強をしろとか、公法を勉強しろなどとは言いません。「長」になりたければ「長」に相応しい、知識、見識、胆識を身につけなさい。と。決して私がそのすべてが備わっているとは申しません。しかし、「あんたよりはあるよ!」「あんたよりは!」と申し上げたい。あえて「あんた」を使うのはそれなりなんですよ。

鴇田正春氏の記事で参考になるものがありました。
http://www.jpc-net.jp/cisi/mailmag/m107_pa2.html
知識・見識・胆識   人間学の学習には三つの段階がある。その一つは「知識」の習得で、人の話を聞いたり書物を読んだりしてえられるものである。知識という点で、われわれは人類がこれまで持てなかった厖大な情報量を手中にすることが可能になった。新聞、雑誌、テレビ、インターネットなど、まさに情報の洪水の中で泳いでいるといっても過言ではない。しかし知識はそれだけでは雑駁なもので、ある事柄についてよく知っているだけでは十分とはいえない。知識は物事の本質を見通す思慮や判断力というものが加わって初めて意義あるものとなる。これが「見識」である。世の中には知識はあるが見識のない人は多い。

見識を身につけるには、まず物事を幅広くかつ深く考えることである。東洋には「思考の三原則」というものがある。その第1は、目先にとらわれないで、できるだけ長い目で観察すること。第2は、物事の一面にとらわれないで、できるだけ多角的、できるならば全面的に考察すること。第3が、枝葉末節にとらわれないで、できるだけ根本的に観察することである。この際に大事なことは自分の問題として考えることである。このような過程を経て真の思考が醸成され、それがすぐれた判断力に結びつく。さらに志を高く持つことが必要である。志とは人生のテーマを持つことである。志を持つとそれに照らして現実に対する反省や批判というものが起こってくる。反省が生まれることで、「なにが道理に適っているか」「この問題はかくあらねばならない」という思慮分別が明らかになる。これは朱子学でいう「格物致知」で、物事の道理を窮め知を致(のば)すということである。そうなると知識は知識でなくなり見識へ高まっていく。見識は不断の修養によって身につくもので、知識のように人から借りることはできないものである。

首相や外相など大臣のことを「○○相」という。この字は木偏に目と書き、木の上に登って高いところから見るという意味である。もともとはこの目は木偏の上に書くのが自然であるが、縦に続けると長くなるので「木」の右へ「目」をもってきたという。大臣は国家の政策を大所高所から判断することが求められるからである。最近の日本の政治をみると、国政の諸問題の取り上げ方など、現時点の局地的な問題に振り回され国家百年の大計をどこかへ忘れた態であるのは残念なことである。

見識は、それを実行に移すことで初めて大きな仕事を成し遂げることができる。見識に決断力と実行力が加わったものが、胆力のある見識すなわち「胆識」である。さまざまな抵抗や障害を断固として排除し実践していく力量のことである。それでは胆識を身につけるには、どのようにすればよいであろうか。その基本を陽明学では「事上磨錬」であるという。事の上で練磨すること、すなわち日々の仕事に徹底的に打ち込み、その努力の積み重ねの中で身につくとしている。社会で有用な人材になることを目指して、己(おのれ)を修めていくのである。陽明学は、「知ることは行うことの始まりであり、行うことは知ることの完成である」という思想で、「知行合一」と呼ばれている。陽明学の祖である王陽明の語録をまとめた『伝習録』は、江戸時代に武士階級の間で人間学の教科書として広く読まれ、特に幕末の志士たちにとっては精神的な原動力になっている。また明治人の人間形成にも大きな影響を与えているのである。


 

知識が見識になり、さらに胆識になることによって、人間の「器」(うつわ)や「量」(はかり)が次第に大きくなっていく。いわゆる「器量人」といわれるもので、人の上に立つ者ほど必要とされる資質である。現在の日本には単なるおしゃべりにすぎないような知識が氾濫している。それは戦後の日本の教育が知識偏重になり、人間としての質を高める人間学の教育が軽視されてきたためではなかろうか。知識だけでなく、真の見識や胆識に勝れた人材をいかに育成するかは、わが国が直面している大きな課題であると思うのである。

私は「人」が好きです。もっと好きなのは「人と話す」ことが好きです。これは昔っから。学生時代から。おしゃべりでしたし、いまでもおしゃべりです。世の中人が10人いれば10人の考え方があり、10人のそれまでの人生があり、10人のそれまでの経験があるのです。自分一人では経験できないことを経験した方のお話を伺う。こんなラッキーなことはありません。ひょっとするとその方がその経験を10年かかったことを、数分や数時間でお話を聞ける。或は、そのことに気がつけば、「自分の人生でプラスになる」「家族が幸せになれる」、「家族が不幸にならない」、「市民の皆さんが幸せになれる」、「市民の皆さんがイヤな思いをしないで済む」…そんな可能性を大いに秘めていることがその辺にごろごろ転がっているのです。転がっていると言うと失礼ですが、「聞く」、いや「聴く」ということが僕の人生に「効く」のです。

それなのに、何か話を聞いても質問も無ければ、わかったんだか
。わからないんだか?「解る」「分かる」「判る」そのすべてが必要です。

打合せをしても、仕事の話で担当者の話を聞いても、全く無反応だったり、自分の勝手な思い込みだけで意見を述べたり、まあ多いんですね。「わかっていないのに、わかっているフリをするアホ」。これが一番厄介と言えば厄介。先方はわかっているつもりでその後を過ごすから。

まあ、まあ、ホント人を育てるのって大変ですわ。