前回は少々クレームもちょうだいしたので、その真意を。
新東京いい店やれる店/小学館
ホイチョイ・プロダクションズ 著
株式会社小学館 発行 1,600円+税

の書評として、今回は引用をお許しいただきましょう。
表紙をめくり、「序章に代えて」を引用させていただきます。ぜひ皆さん、このブログで序章の部分を読んで購入して下さいね。

 その昔、デートってやつは、男がレストランのガイド本を買って情報を収集し、その中からベストと思われる店を予約して女を連れて行ったものだった。男たちは、レストランだけでなく、食後に行く夜景スポット、その後で寄るバー、最後に入るホテルと、デート・コース上のすべての通過点について入念な下調べを行なっていた。デートには「計画」と「準備」が不可欠だった。

 が、21世紀に入り、日本のデート事情は大きく変わった。
 今どきの若者のデートは、近所の駅前で待ち合せして、商店街をブラブラ歩き、行き当たりばったりで空いた居酒屋にとび込む。情報収集も下調べもなし。あらかじめ店を予約しておくなんてことも、評判の店に遠出して食べに行くなんてことも一切しない。
 中には、多少なりとも計画性のある若者がいて、彼女をどんな店に連れて行くか、事前に考えてみるかもしれない。だが、彼の思考過程は、大筋こんなぐあいだ。
 「彼女を都心の高級店に連れて行って、浮ついたヤツだと思われては元も子もない。それに、気取った店では、本当のボクはわかって貰えない。そうだ、いつも行ってるあの店に連れて行こう…」

 そこで彼は、自分がいつもひとりで食事をしている自宅近くの定食屋に彼女を連れて行く。うす汚れた、だがよく繁盛したにぎやかな店内に2人が入って行くと、顔なじみの店主が彼にこう声をかける。
 「やあ、タカシ!」 そう、彼の名前を仮にタカシ君としておこう。
 「2人連れなんて珍しいじゃないか。彼女かい? かわいい娘さんだねぇ」
続いて店主は彼女に向かって、おせっかいにもこう言う。
 タカシ君は迷惑そうに、こう答える。「うるせぇなぁ、そんなんじゃないよ」 そして2人の前に、いつも彼が食べているアジの塩焼きと切り干し大根と味噌汁が出される。皿に箸をつけた彼女を見て、彼は心配そうにこう訊ねる。 「美味しい?」
 彼女は、満面の笑みでこう答える。
 「こんな美味しいアジの塩焼き食べたの初めて! ステキなお店ね」
 そこでタカシ君は、ホッとしてこう思う。
 「よかった、彼女も気に入ってくれている」
 
 タ、タカシ君、ちよっと待ったぁ!
 浮かれてる場合じゃないぞ。そんな店、彼女が気に入ってるはずがないじゃないか!
 賭けてもいいが、彼女は腹の中で 「最初のデートでこの店はありえない。こいつ、バカ?」
と思っている! だけど、男にネットで
 「あの女、性格最悪!」
 なんて悪い噂をふり撒かれるのがイヤで、とりあえず気に入ったふりをしているだけのことだ。

 顔のいい女、すなわち、我々が心からエッチしたいと願う女は、男が想像する以上に自分の美しさを強く意識している。マンガやドラマには、しばしば「自分の美しさに気づいていない美女」というのが登場するが、そんな女は男の妄想の産物で、現実には1人もいない。現実の美女は、常に、自分の美貌を武器に、自分を少しでも高く売ろうと考えている。彼女たちの一番の関心は、相手の男の人間性なんかではない。相手の男が自分をどう喜ばせてくれるか、だ。

 突然、生物学の話をして恐縮だが、およそ地球上のすべての生き物は、メスが生殖行為の主導権を握っている。ライオンの立派なたてがみも、クジャクの美しい羽根も、カエルやセミの鳴き声も、すべてはオスがメスを喜ばせ、自分を選んで貰うためのもの。メスは、たてがみや羽根や鳴き声から、丈夫な子供ができるいい遺伝子を持ったオスを選び、そのオスと交尾して子孫を残そうとする。選ぶのはメスの側であって、オスではない。
 ヒトも例外ではない。人間の男も、エッチをするには、女を喜ばせ、自分を選んで貰わなければならない。そして男にとっては、女をデートで食事に連れて行くという行為こそが、ライオンのたてがみであり、クジャクの広げた羽なのだ。
 デートの食事で「行き当たりばったりでそこらの居酒屋にとび込む」なんてのは論外として、「本当のボクをわかって貰える店」なんてのも、女にとっては迷惑以外の何物でもない。ライオンだってクジャクだって、「本当のボクをわかって貰おう」なんて、間違っても考えちゃいない。男がなすべきことは、あらゆる手を使って女性を喜ばせる、それに尽きる。

 数年前、「いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか」という本がベストセラーになったが、若い男子が、間抜けなデートを繰り返しているかぎり、20代の顔のいい女の心が、同世代の男から離れ、40代男性に惹かれてゆくのは当然の帰結。
 今や、日本の「若いいい女」資源は、我々オヤジに門戸を開いて待っているも同然なのである。

小学館さん、ホイチョイ・プロダクションズさん、書評という扱いで引用をお許しくださいね。

さて、私は数年前からインターンシップの学生さんの受け入れをしております。非常にまじめで、優秀な諸君ばかりで、私なんかどこまで彼らの役に立てるか心配ばかりしております。

そんな折、ある学生さんと話をしたときに愕然としたのです。あまりのことに衝撃を受け、これからの日本をずっと憂いているのです。

私は大学に合格したときに父から「大学に行ったら大いに遊べ」みたいなことを言われまして、大いに遊んだものでした。同時に「働かざるもの食うべからず」とも言われ、父の商売をかなり強制的に手伝わされたものでした。

更には、大学を何度も留年して出会ったゼミの先生も、「最高のものを知らなければ、最低のものも最高のものも区別ができない」という教えがあり、「広告論」を勉強させていただきました。

ちゅ~ことで、学生時代に出会ったのがこのホイチョイ・プロダクションズものです。
映画の「私をスキーに連れてって」 (1987年)「彼女が水着にきがえたら」(1989年)「波の数だけ抱きしめて」(1991年)などが代表作とも言えるでしょう。これらに影響される前にというか、ちょうど同じ時代に、同じようなことをやっていたのが彼らかもしれません。

さて、この序章に代えてにあるように「目的」は一つでした。
ところが今の学生諸氏は、「知らん」のだそうです。勉強ばかりしていて、どうも手順や方法さえもわからんようです。困ったものです。

「知らん」ということは、人生の最も大切なことを「知らん」ことにもなるのではないかと。「知らん」ということは、良い仕事をする「発想」や人が何を欲しているかを「想像」することさえもできないのではないか。と。

私の心配は、更には船橋市役所に入庁の若い諸君の「クリエイティブな発想」を懸念しております。「知らん」入庁したての諸君は、10階の自由市政会という部屋に遊びにきてください。
いまだに「遊び」に関しては一家言ある大御所をはじめ、数多くの「強者」がおりますので、遠慮なくその極意を聞きにいらしてください。そしてステップを踏んで、より良い仕事に邁進してください。

って、前回は何を言いたかったか?
若いうちは大いに「経験」をしてください。そして歳をとっても、大いに遊び心をもって良い仕事をしてください。