船橋市の歴史について、ちょっとだけ書かせていただきました。私が大学を卒業して入社したのが、株式会社船橋ヘルスセンター。当時の社長が丹澤章浩氏。素晴らしい経営者でした。お人柄も、その経営感覚も、何もかもです。文章で表現しきれないくらい、素晴らしい社長で大好きでした。

 

その父上の社長時代の著作を、このブログで紹介させていただいたのですが、その先代から脈々と受け継がれている経営に対する思想が、きちんと社内にありました。入社当時の常務や取締役も、朝日土地興業本社採用の優秀な方々ばかり。いろいろと仕込まれました。徹底的にしかられ、徹底的にしごかれ、徹底的に世間の常識を教えていただきました。それでも、まだまだ未熟なわけですが、少なくとも、甘ったれ学生をある程度の社会人まで、仕上げの過程にまで持ち込んでいただけたのは、丹澤社長はじめ役員の皆様、部課長等上司先輩の方々でした。

 

すでにららぽ~と船橋ショッピングセンターの開業4年目の入社だったと思います。したがって、社名の船橋ヘルスセンターは存在せず、入社年の9月だったと思いますが、社名変更を行った記憶があります。

 

そういう社風の会社に在籍し、市議となって船橋市の街づくりを考えるとき、いろいろと疑問点も多く、ちょうどこの著作を読んで、復習をした感じです。考えさせられるところもありましたので、読後感として振り返ってみたいと思います。

 

ららぽーとと船橋の歴史は、丹澤善利氏の自伝「船橋の土地造りの今昔」を転載させていただきました。昭和38720日発行のものです。

これらを振り返り、少しずつコメントをさせていただきたいと思います。

 

ららぽーとと船橋の歴史(1)の部分で、

まえがき

朝日土地興業株式会社の事業は、「船橋市の繁栄のために」企画されたものであり、普通の事業会社とは、少しく、性格を異にするものであります。しかし、株式会社でありますから、株主の利益は、もとより擁護せねばならず、その上に莫大な税金の負担にも、堪えていかねばなりません。いわば公共の理想と、企業としての現実、この相反する、二つの使命を課せられているのが当社であります。

 

船橋市の繁栄のために企画された会社だったのですね。私が社員時代、上司や先輩の皆さんから聞かされていたのが、この朝日土地興業株式会社です。本社は都内にあり、バリバリの不動産ディベロッパーだったのです。

 

ららぽーとと船橋の歴史(3)の部分で、

船橋市は、この唄の文句にある通り、東京の都心から、わずかに20キロ、江戸川の橋をわたると、市川をすぎて、いつのまにやら、船橋の町になっていますから、たしかにここは、東京の町続き、軒並みつづきの、近郊都市に違いありません。

 

この地の利は当時と変わるわけもありませんが、東京との距離を今後の発展を見据えるのに、きちんと理解していらっしゃったのですね。

 

海岸線の一部には、大正12年の大震災で、避難された東京の人々がこの土地に住みつき、そこを都疎浜と名づけていますが、その前方の海面一帯は、歌詞の通りに、広い、長い遠浅(干潟)でありまして、干潮時などは、その面積、一里どころか、広漠、果てしない広さであります。

 

今も古い方々は、まだ都疎浜という言葉を使う方もいらっしゃいますね。

 

私が船橋を訪れたのは、実は畏友の、千葉三郎さんに、すすめられたからであります。千葉さんはいうまでもなく、千葉県の素封家の出で、今から40年も前、武藤山治さんの実業同志会の幹事長として、また、最も若い代議士として昔から有名な人で、私とは錦城中学の同窓生でもありますから、昔は剣道部で、互いに竹刀を交わした仲であります。

あるとき千葉さんから、こんな話がありました。

 

千葉三郎先生のお名前は、会社にいるときも上司から良く聞いておりました。

 

船橋市は、昔は物資の集散地として、大いに栄えた所であるが、いつしか成田街道の一宿駅となって、行きにしべえか、帰りにしべえかの『八ベえ女郎』で有名になってしまった。

 

いつしかこういう街になってしまったのでしょうかね。

 

そこで、今から10年ほど前、時の市長や、市議会が、何とかして市の発展を計りたいというので、大神宮下の地先の、遠浅海面に目をつけ、あのへん一帯を埋立て、そこへ有望な事業を、誘致しようとしました。

 

当時は政治も積極的だったのですね~。「誘致」をきちんとしたのですね。

 

しかし、何分にも役所仕事のことであるから、約七千坪ほど埋立てたところで、財政的に行き詰まってしまった。従って、七千余坪の埋立てはできたが、あとが続かないものであるから、それから5年間も、草茫々として、野草の中に埋もれていたわけです。

 

財政的な裏づけもなしに走っちゃったのですかねえ~。お役所仕事は、今も昔も変わらない感じですね。

 

ところが高木市長は、何とかあれを、活かそうじゃないかということになった。

ちょうどそのころ、正力松太郎さんの関東レース倶楽部が、その西隣りに、船橘競馬場を建設したが、ここから思いがけない収入があった。

そこで市長は、その金で天然ガスを掘ってみようと、業者に頼んで掘鑿させてみたのである。そうすると、ちょうど1,000米の所で、鉱脈を掘り当てたから、市は凱歌をあげて大喜び。……

この天然ガスは、鹹水を伴って湧出するが、これには32、3度の水温があるので、当然、温泉ホテルの経営が考えられる。この七千坪の土地と、このガスと、この温泉を利用して、何とか市の発展に、役立つようにできないものか。

そう思って市長は、いろんな人に会って、いろいろと勧めてみたが、誰も話にのってくれない。

 

市長のトップセールス。「官」にお金も知恵も無ければ、「民」に頼るしかない。民に頼らなければ街の発展もない。となれば、トップセールスをするのが当然。しかも、国や県にも頼る。それも市長が頑張る。

 

「その条件としては、この七千坪の埋立地内に天然ガスと温泉を利用して、大衆温泉場を作ってくれたら、すでに計画されている十一万余坪の埋立権を、漁業組合と約束した同じ条件で、その人に譲渡してもよい、実は誰に相談しても話にのってくれないし、あれからもう数年たつので困っている。

市としては、何か作って、船橋市の観光資源にしたいのだ」という話。

千葉さんは初め、小林一三翁を連れてきて、現地を鑑定してもらったり、あれこれと、いろいろ研究をしてみましたが、小林さんの意見も、あまり芳んばしいものでなかったし、どうも具体化が困難と気がついて、遂に、私の所へ持ち込んで来られたのでしょう。

 

小林一三氏でも手を出さなかった案件。だからこそ丹澤社長に持ち込まれた案件。

 

私は、草茫々たる、七千坪の埋立地、その中に、木柵のこわれた、ただ一本のガス井戸のそばに立って、腕を組みながら、深い吐息をついたのでした。

むろん私は、それから後も、何回も現地を視察し、現地を中心に、船橋周辺の踏査をしたり、古老や漁師の話をきいたりして、幾日も幾日も、ひそかに調査を続けてみました。

そうすると、このあたりを、干潟一里というけれども、私のみるところ、南北は二里、東西では数里の間が遠浅であって、埋立てにはもってこいの場所であります。土質を調べてみると、これまた申し分はありません。そこでこれは、たしかに国のためには、眠れる宝だ。

もし、この七千坪が足がかりとなって、将来の大規模な、埋立てに参加することができたら、自分の年来の理想が、ここにおいて、実現できるかもしれない。

 

眠れる宝だと判断したその経営センスにはただ驚くばかりです。

 

ハボマイやシコタンをとられて、切歯切歯扼腕腕しているひまに、ここらの周辺を埋立て、新しい国土を造成すれば、この方がどれだけ、国のためになるかもしれない。

本当に男らしい仕事になるだろう。

 

国家のための事業をやるという姿勢が昔の経営者にはきちんとあったのですね。もちろん今だってそういう経営者の方々もたくさんいらっしゃいますが、少々ニュアンスが違うような気がします。

 

そんなことを思っているうちに、私は面白い昔話をききました。

それは天下の埋立王といわれた、浅野総一郎さんが、鶴見、川崎の埋立てに手を染める前に、いち早く船橋に着眼し、これこそ東北一帯を扼する輸出入港である。

また、横浜港が、大東京の右の腕なら、船橋港は左の腕となる可能性もある。そういって浅野さんは、約一カ月間も船橋に泊まり込んで、実地を踏査したり、あるいは要路を説いたりしましたが、周囲がまるで理解せず、とうとう翁をソデにしましたので、やむなく船橋をあきらめて、鶴見、川崎の方へ埋立ての手を、のばしたということでした。

浅野翁の埋立てが、唯一の原因とも申せませんが、川崎市一市の予算と、千葉県全体の予算と、ほぼ同額である現状をみて、千葉県のために、借しみてもなお、あまりある気がします。

今にして憶えば、あのとき浅野翁をうけいれていたなら、船橋、いな千葉県は、一体いまごろ、どうなっていたのでしょう。

私はこの話をきいて、いまさらのごとくに、翁の先見に敬服すると共に、自分に果たして、いくばくの仕事が出来るかはともかく、命をかけて、この事業に取り組んでみようと、深く心に決しました。

 

浅野総一郎氏をその気にさせた立地。周囲の反対。川崎の発展。ここの部分でもわかりますが、以前から感じていることですが、船橋の人って、すごく排他的で、内弁慶。だと思います。昔から今まできっとチャンスロスがたくさんあったのだろうと思います。このときも、ぎりぎり丹澤社長の熱意と粘りがあったから、頑張ってくださった。でも、浅野氏は、「別にいいや、船橋がだめだって言うなら他もあるし」って他へいってしまった。こういう、世間(全国的な)の流れを、タイミング良く見極められない土地柄のような気がします。