私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。

 

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丹澤善利自伝より

 

 お鉢が回った船橋の埋立て

 

織田 そういう豊富で、幾つかの経験の上に、船橋の埋立てを手がけられたから、間違いがなかったわけですな。

 

丹沢 まあ、そういうことがいえましょう。ところで十三、四年前、私が六十歳の時だ。船橋に七千坪の埋立てた土地があるから、それを何とか活かしてくれ、という話が来たんです。そこに温泉でもつくってくれれば、地先の十一万坪は、埋立てる権利をやろうというのです。そのかわり、その二割だけ、一万坪は無償で、一万坪は実費で漁業組合にやってくれという条件で、初め市が千葉三郎先生に頼んだのでした。

 

織田 千葉さんは自民党の代議士で、たしかおとうさんは、千葉弥次馬という、有名な千葉県の素封家でしょう。

 

丹沢 そう、よく知っておりますな、何しろ育ちがよいですから、千葉さんは絶対に利権などには、目もくれぬ立派な代議士として、市から頼まれたのでしょう。干葉さんは市から頼まれてから早速、小林一三さんに相談し、小林さんを、現地に案内したんです。小林さんは、ご承知のように、今太閤といわれたほど、頭の切れた人ですが、しかし、さすがに慎重で、えらい綿密で、自動車にも乗らず、東京駅から国電に乗り、船橋駅からは何分かかるか、仔細に時間をみながら、視察したというのです。

 そしてこれは面白い仕事だ。しかしこれだけの仕事は、代議士をやりながらでは、とても出来ない。代議士をやめてかかったらどうだ。それからもう一つ、温泉場とか、歓楽境をつくるのはまずい。もっと手放れよく、土地を売って、みんなの手で開拓したほうがよいだろう、と進言されたそうです。しかし、市長や市会はどうしても千葉さんに、何とかしてくれと頼み込んだので、こんどは、この丹沢にお鉢が回ってきたというわけです。

 昭和二十七年の暮れでした。私は、船橋の海岸に立って、七千坪の埋立地の利用方法と、十一万坪の埋立てを考え、その続きに数里にわたる、干潟地を望見して、もし引き続き、この埋立てをやらせてくれるなら、これは一生の大きな仕事だと思った。というのは船橋の歌に“潮は大潮、船橋音頭、干潟一里は街の庭”というのがあるほどです。

 

織田 ……

 

丹沢 要するに、干潮になるとずっと陸地になる。それが一里ばかりではありません。そんなところを、このままにしておくことは、国としても県としても、国土の狭い日本ではウカツな話。

 温泉はともかくとして、もしこの埋立てに参加できるなら、必死にやろうと考えて引き受けました。

 

千葉県の埋立て

 

丹沢 千葉県という県は、妙なところで、千葉市から北の方、たとえば、船橋とか市川は、東京にあまり接近しているのでおろそかにして、千葉市以南に県政の中心をおいて、力を注ぐ傾向があった。

 船橋など、県の政治からいえば、放り出された形で、船橋は成田へ行く一宿場で、昔の八兵衛女郎で有名なところ、当時は赤線の盛んなところぐらいに考えられ、工業とか、文化には、まことに縁遠いものだった。が、市の為政者は、何とかして工業都市、文化都市にしたいと、歴代の市長が考え、神宮地先の十二万坪を埋立てて、工業地帯にしようという計画で始めたわけです。

 ところが、七千坪ぐらいやっているうちに、資金がなくなった。で、そのままうっちゃらかして、私が行ったときは、四年も五年も七年も経っており、木柵も崩れてしまっているという有様でした。

 何とかしなければ、というので、そこに、高木市長がガス井戸を掘った。しかし、市の財政上、これを活用することもできない。セパレーターで水と天然ガスにわければ、温かい水も出るから、小さな大衆温泉宿でもつくれば、市の発展のためになる。それをやってくれる人に、地先の十一万坪の埋立権を与える、という。そこで、私は、それを引き受けました。しかし、条件として、温泉をつくらねばならんのですが、どっちが肝心かというと埋立てだ。で、温泉をつくるつくるといって、どんどん埋立てをやったものです。

 

織田 ハハア、それで朝日土地興業株式会社というのが設立されたわけですね。

 

丹沢 そういうわけです。昭和二十八年に資本金一億円の会社をつくり、最初の払込みには私と大阪造船の南俊二氏、次には菊池寛実氏も援助してくれましたが、さらにその後、山一証券の大神一氏が全幅的に援助して下さった。大神さんもなかなかの肚の大きい人であり、先の見える人ですからね。

 その後、資本金は二億円となり四億円になり、まあ、今日の二十億百万円の会社になったわけです。

 その時に、ヘルス・センターを七千坪のところにつくっていたら、今日、船橋へルス・センターは東洋一のものにならなかったでしょう。まず十一万坪の埋立地をつくってしまって、その中の真ん中へ、登別のグランド・ホテルにある、大ローマ風呂をまねて、六百坪のものをつくった。

 

 驚くべきヘルス・センター

 

丹沢 ところが、温泉場をつくることが初めからの義務的条件でしたが、温泉をつくることには重役会も、その他のみんなが、盛んに反対して私をいじめたものです。

 あんなところに客が行ったら、お目にかかりたいと、市議の中でも市民も鼻で笑った。結局、丹沢は赤線でもやらねば、やってゆけないだろうと、悪口をいって、冷眼視し、いろいろと邪魔したものが多く、中に幾人か精神的に援助してくれた人があり、今でも、その人々に感謝しています。

 ヘルス・センターをやりながらも、埋立てが私の本業だから、こんどは浜町の先、五十万坪を埋立てることが、まず、必要だと思い、それに専念しました。

 

織田 なるほど、ところで船橋にヘルス・センターができ、工業地帯ができて、大いに繁昌しているのですが、月々、あるいは年間どのくらいの金が落ちるものでしようか。

 

丹沢 へルス・センターの売り上げは、月額二億円くらいですが、市としての経済成長率は大変なものでしょう。一つの例をとれば、市の予算が、四、五倍になっていることは明かです。

 

織田 話しは違いますが、三井不動産でも昨今、盛んに、埋立て事業に進出している。これは世上の噂によれば、あなたが江戸社長に教えたとか、あるいはそれがキッカケになったとか、いうことなんですが……。

 

丹沢 お教えしたなどというと、おこがましいが、朝日土地の四回目かの増資の時に、三井不動産とか、地元で縁が深い京成電鉄にぜひ、株を持ってもらいたいと勧めましたところ、埋立て事業というものは、面白いというので、江戸社長が当社の重役になり、株も持って下さった。そしていろいろ話しているうちに、関心を深め、とうとう三井不動産で、埋立て専門の会社を持つようになったわけです。

 そういうキッカケで、三井不動産はだんだん研究され、むしろあとの烏が、先になった恰好です。向こうの方が大発展ですが、しかし、一つ違う点があるのです。