私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。

 

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丹澤善利自伝より


成金から成貧に

 

丹沢 ところが私は、大正九年のガラで、成金がいつの間にか、成貧になっていた。毎日、手形に追われているという状態のとき、芝浦の土地が、競売になるという、通知を受けたものです。さあ困った、しかしこれは一世一代の大仕事だ。なんとかしなければというので、前にも申した山本条太郎さんの子分である、梁瀬長太郎君に相談したところ、それは捨てて置けないから、力を貸そう、ということになったが、二人が力を合わせても、中野さんには、とてもかなわない。といっても、これまで骨を折って、あと一歩というところだ、と有金をまとめて、競売場へ行く前に、中野と妥協して、談合で一部分でも分けてもらおうと、中野さんを神田の旅館に訪問したわけですが、たいへん耳の遠い人で、自分に割のいい話か、聞こえないふりをする。どうしても要領を得ず、とうとう入札の日が来た。

 前にも言ったように、競争するのは二人だけだ。高く入れては自分らの損だから、そこでなんとか妥協しようではないかということになった。

 その時、中野さんは、どうしても全部取るというが、こちらも金がなかったから、止むなく談合金をいただいて、芝浦の土地、二万坪の借地権をもらった。

 結局、中野さんが、坪二十一円余という、当時の最低価格で全部を落札し、私らは一坪につき、五十銭の談合賃、二十数万円の金を貰って帰ってきたものです。

 雅叙園の細川さんは、提案者として、二万坪だかの借地権を貰い、その金で雅叙園が出来、後年の名物男になったわけです。以上のような、面白い歴史ばなしがあるのです。

 芝浦の土地は三十ヵ年地租免除で、それでも取り手がなかった。今日、埠頭は坪二百万円、引っ込んだところでも、五十万円、まったく考えると夢のような話です。

 

織田 まことに……。

 

丹沢 あの時、私に金があったら、それこそ大変。とにかく埋立てには、非常な関心があったわけです。

 後年、四十二、三歳の時、日本ではとても、埋立ては出来ないと思い、朝鮮の平安南道に、干拓地を求めて進出しました。

 そこは、潮の干満が世界的にひどいところ、だから堤防を築いて、満潮のときに潮が入らないようにすれば、立派な陸地になるというので、平壌から五、六時間もかかる、江西郡の辺ぴなところで、朝鮮人の家に住み、そこの干拓事業をやったこともあります。

 要するに、土地の造成ということには、生まれながらの執念があり、経験があったということです。