私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。

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丹澤善利自伝より

 

==経済展望==

 

 国づくりにかけた情熱と成果

 

 次にこれは、女性の雑誌とちがって、『経済展望』という、男性向きの、しかもおかたい、経済雑誌で、この社から、織田誠夫さんがみえて、私にいろいろの質問をなさいましたが、その対談記事が、三十八年六月十五日号に掲載されていましたから、これもついでに、転載させていただきます。

 私の昔話もありますから、どうか、ご笑覧いただきたい。

 記事は、

 「国づくりにかけた情熱と成果」

  埋立ては私の執念という

   丹沢善利氏に苦心をきく

と題して、次のような対談記事であります。

語 る 人

  朝日土地興業社長 丹沢善利

  きく人      織田誠夫

 

偉い親分に指導を受ける


織田 この社長室に、山本条太郎さんのお写真が飾ってありますが、私にとっても非常になつかしい人なんですが、山本さんとは、どういうご関係があったのですか。

 

丹沢 私は、十八の時に父に死に分かれまして、大学へ行きはじめたのですが、若主人ということで、すぐ、家業を継がなければならんことになったわけです。だから、誰か偉い人を親分として、その指導のもとに実社会の、大学をやろうと考えた。

 そこで、私は、中学の友達で、仲良しの古市基介君に頼んで、そのおとうさんの、古市男爵に相談してもらったところ、山本条太郎さんが、よかろうということになった。当時の山本さんは、ちょうどシーメンス事件で不遇時代、三井物産を辞めて、ステーション・ホテルに事務所を持っておられた。なかなか、偉い人で、財界の世話役という格で、最高峰にいた。

 そこへ、古市公威男爵が、私を連れていって紹介し、これは将来、有望な青年だから、どうか、あんたの子分にして、ひとつ、よろしく導いてやってくれ、と頼んでくれました。

 

織田 古市公威といえば、明治の鉄道建設に貢献した人でしょう。

 

丹沢 そうそ、明治から大正にかけ、鉄道の大御所で、山本さんも、相当以上に敬意を表していたものです。私は、男爵のおかげで、それから一週に二度ぐらいは、必ずお邪魔して、お話を聞き、かつ、ご指導を受けることになりました。

 その後、私は、日蘭貿易というのをやることになって、二千二百噸の帆前船を買いましたが、その金も山本さんの保証で、銀行から借りました。それがのちに、大儲けになったので、その半分はお礼しましたが……。

 そういうわけで、山本さんは、えらく私を可愛がってくれまして、私が若いものだから、自分の代理に、三井物産の名古屋支店長をしていた岡野さんを、日蘭貿易の社長に据え、私が、専務ということで、本格的に始めたわけですが、そういうことで、山本さんは、台湾銀行や、朝鮮銀行に、無制限の保証をしてくれました。しかし、当時の私は、若いせいもあって、だいぶやり過ぎたが、とにかく、山本さんに教えられるところは、非常に多かった。ほんとうの親分というのは、ああいう人ですね。

 

織田 もと、取引所の理事長をつとめていた、藍沢弥八さんの部屋にも、山本さんの写真が飾ってあったが、あの方も、可愛がられた一人だそうで……。

 

丹沢 そうそ、それに日本化薬社長の原安三郎さん、梁瀬自動車の梁瀬長太郎さん、その他大勢の子分がおりましたが、私も、末席の子分というわけでした。

 当時、山本系の会社には、原さんとか、梁瀬さんとか、私までも監査役とか、取締役にしてもらいましたが、そのころ私が二十五、六歳、原さんが十歳上で三十五、六といった時でした。

 

土地造成の先駆者

 

織田 話は、変わりますが、最近、土地造成ということは、各地で非常に盛んなんですが、あなたは千葉県における埋立て事業を、戦後に最初にやった人、浅野総一郎翁は別として、あなたもその方の先駆者というわけで……。

 

丹沢 そう言えるでしょう。日本の埋立て事業の歴史というものは、お説のとおり浅野さんが埋立王だったが、そして鶴見に、あの大きな埋立て事業を、完成されたわけですが、ほんとうはその以前に、船橋に着眼して、一と月も、二た月もお通いになったそうです。それは、明治三十年ごろじゃないかと思われます。

 ところが、その時分、船橋の連中がやたらに排斥して、反対するもんだから、これは面倒だ、というので、鶴見に指向したわけで、今日考えれば、千葉県はえらい損をしているわけです。

 私は、月島におやじの工場があったものですから、高等小学校から、中学時代を月島で育ちました。

 昔、佃島とは流人や、懲役人がモッコをかついで、やっておったそうですが、その後、大いに進歩して、月島ができたわけです。

 私は、明治三十七、八年ごろから、渡し船で、月島から築地の小学校、神田の錦城中学校へ通ったものでした。そこで当時から、私は埋立てというものを、身体で味わってきたのでした。

 

織田 なるほど、船橋の埋立ても早いが、きのう、きょうの思いつきじゃないということですな。

 

丹沢 そういうわけです。父の工場が出来たときは、月島の東仲通りというところでしたが、その近辺一帯は、葦が人の背丈以上に伸びていて、ところどころに、工場や、人家が見られるくらいで、それがだんだん、開けてゆくのを見てきたわけです。

 私が中学校を卒業するころは、実に、立派な、市街地になり、今の晴見埠頭の背後をなす、繁華な土地ですが、とにかく、私は埋立てというものは、大変なものだ、狭い日本の国は、大いに埋立て事業によって、土地を造成し、発展しなければならない、と埋立地に育ち、埋立てを見て、成長したようなものです。ところで、私は先ほど申したように、山本さんのご援助で事業をやり、船を買ったり、古鉄を買ったりして、二十七歳ぐらいのころは、なかなかの成金になりました。

 

三十歳で五十億の財産家

 

織田 当時の成金というと、今の金にしてどのくらい……。

 

丹沢 そう、この間、ちょっと勘定してみたら、十億ぐらい、いや、いや、もっとあったかもしれませんな。その後、大正八年の末、私の三十歳の時分は、五百万円あったのですから、今でいえば五十億の財産家になっていたわけです。ところが、芝浦の埋立てというものがあった。もとから埋立てに関心があるので、調べてみたところ、四十二万坪の東京港……芝浦から品川までを、どんどん造りつつある。そこで私は、その払い下げをしてもらおうと考えついて、当時、市会議員であり市参事会の一人であった、角田真平さんに依頼した。ということは、その人の子供が、私の同窓生で、中学を出て、私の店に勤めていたのです。

 そのころ、花井卓造、角田真平、それから総理大臣をやった、鳩山一郎さんのおとうさん、この人たちが錚々たる大代言人(今でいう弁護士)であった。そこで角田真平さんは、私のために、だんだん渡りをつけてくれた。ところが俄然、競争者が現われてきた。新潟県の、……自分の家の庭から石油が噴き出して、一躍石油成金になった、中野貫一という人です。

 どうしてその人が、競争者として、現われてきたかというと、芝浦に見晴館(?)という旅館があって、そこに細川という同郷人が勤めていました。ここへ宿を取ったのが縁で……その細川さんという、番頭さんが、背中を流しながら、中野貫一さんに埋立ての話をして、今、この埋立てを取ったものが、日本一の大金持になるのではないかという。

 

織田 ……。

 

丹沢 なるほど、これは面白い、と番頭さんに聞いた翌日に、中野さんが、その埋立地を見て回り、そして東京市へ、正式に払い下げを申し込んだわけで、中野さんと、私の二人が競争になってしまった。これは大正十年ごろの話で、その時、背中を流したのが、後年の目黒雅叙園の旦那である、細川さんだったと聞いております。