私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。



丹澤善利自伝より

迷子になったら電話しなさい

 千葉県船橋市の船橋へルス・センターには、一年に三百六十万の人たちがやってくる。これはディズニー・ランドに匹敵する数字である。海にそった十二万坪の敷地に、おふろから飛行機までそろっている。それでもせまいので、目下埋立て中である。セスナ機から見下ろすと、埋立て工事のパイプが伸びている、遠浅の海岸には潮干狩りの人たちが、点々と散っている。

 直線、曲線、二つのジェット・コースターの幾何学的な模様の中に、遊園地の娯楽施設が、ところせましとあって、家族連れがむらがっている。

 ナイロンブラシの上をすべるスキー場は、マス・コミでも紹介ずみだ。空からは、ひと目で見わたせる、このマンモス・ヘルス・センターも、歩いてとなると、その複雑さにあきれる。

 僕たちを案内してくれた、宣伝部の野尻さんは、

「迷子になったら宣伝部に電話をください」

と何度も念を押した。

東洋のふしぎな娯楽場

 「温泉にいけない人たちに、温泉気分を味あわせてあげたい」

 埋立て業者である丹沢社長の意思で、宴会用の座敷をもった、浴場を作ったのが八年前。今では全館に九つのステージを持つ広間と、大小三十近い浴場を持つようになり、野外の遊園地もまた、東洋のディズニー・ランドというには、ちょっと照れくさいが、まあまあのりっぱな設備。

 とにかく遊園地のまんなかから、セスナ機が離着陸しているのだから、スケールの大きいことは確かである。同じフロアに三十のレーンを持つボーリング場も、広さからいったら、日本一には違いない。僕たちは、目にふれた部分からルポしようということになった。

 興味本位なもののいい方をすれば、東京から三十分で混浴できるのである。

 若い女性、つまり、本誌の読者にしてみれば“混浴だなんていやらしい”ということになるだろうが、取材だからその大浴場をのぞく。

 湯気が立ちこめて、見通しの悪い内部だが、たしかに裸の男女の影がうごめいている。多くは中年以上、老人ではあるが、混浴には違いない。

 混浴というシステムは、温泉地ならどこにでもあるし、僕自身、北海道の登別では、あっというまに、女学校の団体がはいってきて、一瞬、ハレムの王様になったような、気分に襲われたこともあった。僕にはセックスの解放などと、叫ぶほどのこともない、おおらかで美しい習慣とさえ思える。国際的な見地から、これを理解させるのは困難だろうとは思うが……。

 九つのステージには、常にショーが演じられている。ある時はプロの歌手、ある時は一杯機嫌のお客さん、そしてこのヘルス・センターで育った、専属舞踊団と少女音楽隊である。プロの歌手の場合は、村田英雄、こまどり姉妹、畠山みどりといった一流タレントが登場する。

 人気スターと同じ舞台で歌い、踊れるという感激から、お客さんの素人芸はその順番でもめるほどに殺到する。ヘルス・センター側も、要領よく、適当な衣装と小道具、レコードなど用意してある。そしてはなやかな、専属舞踊団の登場も人気の一つだ。これは発足して七年、それも、まったくの素人の少女を育てあげたものである。スタッフにはSKDの演出家を迎えているのだから、その熱心さは理解できるが、僕は宝塚歌劇の生まれた経過をたどるような興味をおぼえた。