私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。


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丹澤善利自伝より


 遠大なる工業都市計画を推進したい


 次に私は、さきに完成した、船橋市湊町地先の、五十万坪の埋立てについて、その経緯の概要と、この事業に必須不可欠なる計画性の内容と、埋立事業の早期達成には、いかにすべきかという諸問題について、その経験した事実を、披瀝したいと思います。
 もちろん、五十万坪の埋立ては、国や県が、将来に備えて十分研究の結果、その指示に従って、市が施工者となり、市の委嘱により、朝日土地興業株式会社が代行したものでありますが、この先、二次、三次と埋立てが続行されても、この施工内容は、いささかも支障を来たすものではありません。
 すなわち、同埋立ては、将来に備えて、第一、第二、第三地区の両側に、三本の大澪(ミヨ)が掘られ、それぞれ陸地に向かって縦走し、これが運河の役目を果たしております。また幅員五十米という産業道路が、各地区を横断しているほかに、十三米の鉄道用地も出来ており、これが将来、東京と直通する、産業大動脈となるのであります。


 しかして、この産業道路を中心に、大小の道路を敷設しましたので、五十万坪の埋立てというも、内十六万余坪は、道路、鉄道用地、公共荷揚場等その他の、公共用地として提供し、将来の発展に備えているのであります。いまかりに、これを従来の道路と比較してみるに、京葉第一級国道は、幅員十六米、船橋駅前より埋立て地に至る幹線道路も、その幅員は歩道を合わせて、わずかに十六米に過ぎず、これらに比較してみても、この五十万坪埋立地は、無計画どころか、遠大なる総合的計画の下に、念には念を入れて、設営されたものであることが、容易に立証されるのであります。
 次に誘致工場の不平の問題でありますが、それは航路の掘鑿が遅れて、大艀さえ入港が自由でないということ、及び市の道路政策が、遅々として進まぬという二点であります。


 実は五十万坪埋立ての完成後 、市の当局と私どもは工場や企業を誘致するに当たり、将来の計画や、航路の問題などにつき、完成の期限は約束しなかったにしても、近き将来に、三千噸や五千噸の船舶は、自由に出入出来るであろうと、述べたことは事実であります。しかし航路の掘鑿は、新たな埋立て工事の開始が、前提となるわけで、この埋立てに引き続いて、更に前地域の、埋立てを計画しているのであって、これについては、漁業組合も歩調を合わせて、二の手として、三十四年には、県当局との間に、新しい二百万坪埋立ての申し合わせまで、出来ている次第で、むしろ心ある市民は、誘致会社の不平、不満の昂揚が、新規埋立て…すなわち航路掘鑿…の機運を醸成するものとして、暗にこの声の高まることを、ひそかに期待していたのであります。


 しかしその後、市としては、予算の関係もあってか、埋立計画に熱意とぼしく、道路のごときも、遅々として予期に反したので、なれあいの不平不満の声は、いつしか真剣の苦情と変わって、喧伝せらるるに至ったのであります。そこで埋立ての関係者であった、朝日土地興業株式会社は、焦心憂慮の結果、遂に昨年(昭和三十七年初め)、県庁に対して、必死の陳情を続け、漸くにして、ヘルス・センター地先十七万八千坪(内五万余坪は公共用地とする)の埋立てが許可されましたので、これを施工する際、その埋立てに要する土量を、四~五キロの遠きより運搬することによって、併せて航路の掘鑿を果たすこととし、それらの費用を、埋立ての土地原価に負荷することとして、これを県当局並びに県議会の協賛を得ましたので、昭和三十九年度には差し当たり、三千噸級の船舶が、横付け出来る程度に、航路の掘鑿が、実現する運びになったのであります。


 そのほか、道路問題の解決は、市当局の発奮努力にまつ外はありませんが、誘致会社も実業人であれば、得失の勘定はみずから分明のはずでありますから、その声を建設的方面に結集して、相共に船橋港の理想図を完成するため、この上のご協力を請い願う次第であります。
 由来、わが国の都市発達過程を見ますと、いずれも民間企業が先達となっており、その後に政府の施策が、これを整備、充実して、…道路、港湾、その他の施設等…漸く今日の殷盛を来たしているのであります。


 その顕著な例は 、鶴見臨港都市でありまして、浅野総一郎翁は、一漁村に過ぎぬ、鶴見周辺に着目し、ここを埋立てて土地の造成を企てたのでありますが、爾来十数年間、政府の援助にたよらずして、一切の埋立て費用…銀行の借入金の金利支払いに悩みつつ、本邦の基幹産業はもちろん、大中小工場が軒を並べるあの近代工業の、大都市の基を築いたのであります。
 当時翁は述懐して、
 「埋立事業は儲からぬばかりでなく、非常に困難な仕事である。しかし国の将来のため、何としてもやらねばならぬ」と。
 このような例は、北九州にも見られ、福岡以東の各都市と、その地先の埋立事業は、いずれも民間企業の大いなる所産であります。
 わが船橋市の場合も同様、元来千葉県政は、その比重を千葉市及び千葉市以南に重きを置き、市川、船橋はともすれば、閑却されがちであります。本来なれば、船橋市のごとき要衝の地は、港湾都市として発達すべき要素を、十分備えているにもかかわらず、七、八年前までは、昔のままの漁師町、成田街道の一宿駅にとどまっていたのであります。


 それが幸いにして、船橋市に、中絶していた埋立てを完成し、そこにヘルス・センターが開場されたのを契機に、市全体も何となく積極性を取り戻し、旧来の殻を破って、一躍工業都市として、天下に名乗りを揚げるに至ったのであります。これなどは必ずしも政府が、政策として掲げ、みずから手を下さずとも、大勢の赴くところに従い、間接にまたは直接に、指導のよろしきを得れば、立派に目的が達成される好個の例と申せましょう。
 要するに、船橋周辺五十万坪の埋立ては、決して無計画に行なわれたものではありません。また誘致された諸会社の不平も、船橋港の進展を促進せんとする熱心なる応援団歌でありまして、決して他意なきはもちろん、すでに一部解決済の懸案も少なくありませんから、今後に行なわれる埋立て事業については、以上の、幾多の尊い経験に徴して、極めて有利、かつ適切に施工されるものと確信し、今後の見通しは、誠に明るいものがあるのであります。