私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。

できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。


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中学時代の同窓生と
 京葉工業地帯の今昔を語る


 これは今から、十二年ほど前から始まるお話です。
 たしか、昭和二十六年の盛夏でした。料亭“勝田”で、錦城中学の同窓生として、千葉三郎さんと、川崎製鉄の西山弥太郎さんと、私の三人が集まったことがあります。千葉さんと西山さんは、高等学校も一緒で、しかも同じ寮に寝起きしたのですから、誰よりも親しい間柄です。それだけに話もはずみ、うちとけた話をしましたが、そのとき西山さんは、千葉市進出の大理想を述べて、
 「八幡や富士のような、老大会社になると、よいとわかっていても、なかなか技術革新はやりにくい、そこへ行くと、川崎製鉄などは、造船から独立して、まだ日も浅いだけに、どんな革新的方法でもやりやすい。
 そこで千葉工場へは、三百億円の予算で、新しい、理想的な製鉄一貫工場を造る」
 といって、たいへんな抱負経綸を述べられたのでありました。当時はまだ、アメリカのいろいろな制約に縛られていましたから、日銀や大蔵省あたりでも、そんな夢のような話が実現するものかといって、白眼視していたそうですし、時の大蔵大臣が“川鉄にペンペン草をはやしてやる”と、いったとか、いわないとかで、いろいろ取り沙汰されていました。


 私も正直なところ“テンノー”といわれる西山さんが、独裁で、理想に走りすぎて、失敗しなければよいがと、内心では心配したこともありました。
 その後また、同窓会で会いましたら、西山さんから、
 「千葉県は、知事以下が熱心に誘致しておきながら、いよいよ建設にとりかかると、なんだ、かんだと、難クセばかりつけてくるので、全く困っている」
と愚痴をこぼしておられました。


 その翌年、はしなくも私が船橋へ進出して、朝日土地興業を設立しましたので、西山さんに株を持ってくれと頼みますと、“よろしい、一万株もちましょう”と引き受けてくれましたが、払込みの日になって、断わって来られたのです。それは一株五十円券だと思ったら、五百円券であったので、こいつはいけないというわけで、断わってみえたのですが、その後川鉄も、財界や新理想派の支持をうけて、今では八幡、富士と肩を並べる、大工場を完成しましたが、はしなくもこれが契機となって、千葉県には次々に大工場が来ることになったのであります。私の方も、おかげさまでどうやらでき上がりましたので、先日もお会いしましたとき、
 「あのとき、一万株もっていたら、今では金持になっていたのに、長蛇を逸しましたなあ」
と笑っておられました。


 全く思い起こすと、今の五井・八幡地先の、不夜城のような工業地帯に、その先鞭をつけたのは、川崎製鉄で、しかも西山さんの英断によったのでありますから、“事業は人なり”の名言を、今更のように、しみじみと感ずるのであります。


錦城の同窓会には、千葉三郎さんはもちろん、八幡製鉄の稲山社長や、三井物産の新関会長や、三菱レーヨンの賀集会長、東洋信託銀行の荒井社長、住友信託銀行の沢野専務、大学の吉田教授や今の大蔵大臣の田中角栄さんなどもみえましたが、せんだっても稲山さんが、
 「何といっても西山テンノーは、日本製鉄業の大先達だ」
と激賞しておられましたが、その西山さんを成功せしめた、第一銀行を初め、融資団体の援助も、特筆すべき功績だと思います。