私が大学を卒業して、株式会社船橋ヘルスセンター(現在のららぽーとマネジメント株式会社)に入社したのが昭和59年だったと思います。当時の大先輩の方にお借りして読んだのがこの本でした。

できれば、後輩の諸君や、船橋市の関係者の皆様に歴史の一端を知っていただきたいという思いから、ここに残させていただくことにします。


*************************************************************************************************************


 国土を造り
 レジャーを育て
 生活を豊かにする


 とは、わが社のモットーとする所であります。
 なお、申し残しましたが、船橋港をどうしても完備しなければなりません。そのためには、遠浅の干潟に、航路を掘鑿して、大船の入港を可能としなければなりません。これを実施しますと、浚渫船から吐き出される土が出ます。その土が埋立てとなるけでありますが、その工事の施行が急がれまして、それがこんどの、ヘルス・センター地先の、十七万八千坪の埋立てとなって、目下、着々として進行しつつあるのです。
 これは昭和三十八年中に、完成の予定でありますが、完成すれば、三千噸級の船舶が、自由に出入できますので、誘致の諸会社も、ようやく愁眉をひらいて、完成の日をまちわびているのであります。
 私どもの理想としては、航路の幅員を四○○米、長さ十二キロという、大船橋港の築造を夢に描いておりますが、これもその実現は遠くはないと思われます。
 そうすると、また本式の、埋立てによる土地の造成が可能となるのであります。
 千葉県は、既定計画として、船橋の周辺六百万坪の、埋立案をもっていますが、この大事業に私どもは、何らかの形で、ぜひ参加したいと熱望しております。


 かようなわけで私どもは、終始現地第一主義で、随分無理な、身勝手と思われる要求にも、できるだけ聴従してきましたし、従業員もなるべく、近くの漁業家の子弟を、優先的に採用し、厨房用の原料や、売店の商品も、できるだけ現地調達に心がけ、漁業家とも、何のいざこざもなく、仲よく手をつないで、その繁栄をはかってまいりました。
 初め漁業家の中には、埋立てには絶対に耳を貸さず、私どもを“よそもん”として、いかに努力をしても、容易に意思の疎通が、得られなかったものであります。
 そこで私は、あるとき、総代の方全部と、ヘルス・センターの大広間で会見し、“おめえ”“おれ”の遠慮のない話し合いを、幾時間もいたしましたが、誠は天をも動かすとか申しまして、さしも“よそもん”のいうことも、よく理解されまして、それ以来十年、いよいよ親交を深めております。


 たとえば、センターの海の家は、その入場者の多いことでは定評があるのですが、当社では、入場者のアタマ数に応じて、漁業組合に対して、入場料の割戻しをして差し上げたり、あるいは組合員の家族の方々 または未亡人の方々に、場内外で、あさり、蛤の販売をやらせておりますが、それかあらぬか、船橋の漁業組合は、県内外にも及ぶものがないほど余裕綽々たる組合で、建物も鉄筋建ての堂々たる姿を、海老川畔に誇っております。


 そういうしだいで、私どものやり方は、世の利益一辺倒の資本家と違って、まずもって、社会大衆への奉仕、みんなで喜びをわかち合うこと、それを先決のモットーとして、常に一貫しておるのであります。
 このようなわけで、県外から、朝日土地興業や、ヘルス・センターの実情を調査した上で、当社に対して、地方の開発等について応援を求めて来られる向きが、最近、頓に多くなり、われわれはその応接にいとまもない有様ですが、地元ではそれほどには認めてくれないのです。


 顧みますと、私どもは、船橋へ根をおろしてから今日まで、誠に苦難のあけくれでありましたが、そのうちには、だんだんに理解者がふえて…故意に難クセをつげる人は別として…陰に陽にご支援下さる方が、四方八方においで下さるのであります。
 特に前の柴田知事さんと、今の友納知事さんは、副知事のころから「千葉県のため」という大局的見地に立って、早くから、理解と援助と監督に、そのよろしきを賜わり、地元船橋市の市長、前正副議長、委員長を初め、各委員のみなさま方からも、私心を離れて、真に船橋市百年のために、非常なご協力を賜わりましたことは、誠に感謝の至りであります。
 ことに高木さんの場合、市長選挙などで、ヘルス・センターと特殊の関係でもあるかのように、取り沙汰されたこともありましたが、その後市長さんは、清貧に処して医術に没頭され、いささかの私心、私欲もなかったことが、ようやく一般に理解されましたことは、誠にうれしい限りであります。


 会社としましては、何といっても大株主であり、指導的立場に終止された、菊池、南の両翁…南さんは昨年逝去されましたが、その前から病床におられたので、会社の近況を親しくご存じなかったことは、かえすがえずも残念でなりませ
ん。…菊池さんは、引き続き山一証券の大神社長と共に、何くれとご面倒をいただき、私どもが大過なく、これまでやってまいれましたのも、そのおかげと、感激を新たにする次第であります。


 また最初、ヘルス・センターで採用した、七十名の雇員が、大部分、男女共に正社員となり、よく私どもの意を体して、世にも珍しい熱意と勤勉とをもって、今日の基礎を作ってくれましたが、この従業員諸君と、社長である私との関係は、マス・コミにも再々とりあげられて、おほめをいただいていますが、サービス業は、いかに輪奐の美を誇ろうとも、精神的に、使命を自覚した現場の者が、接客するのでなければ、繁栄の永続は望みがたいもので、現に大規模になればなるほど、衰亡の運命をたどってきたのが、本邦におけるその道の歴史です。


 もちろん、ヘルス・センターも、現在八百人の係員で、日曜、祭日には、それに二百五十人くらいの、アルバイトを使うのですから、不本意ながら、部分的には、サービスが悪いとのお叱り言を、頂戴することも度々ありますが、大体において従業員は慣れた者、奉仕の精神に徹したものが、大多数でありますから、いささか自負するわけでありますが、この点は、今後、一段と努力してまいりたいと思っております。
 私が日曜、祭日ごとに、休みを返上して、ゴミ拾いをしたり、便所や、きたないものを掃除して回るのも、若い者には気のつかぬ所を、老人が身をもって、補っている、それを若い人たちにくんでもらいたいと、ねがうからであります。


 昨年末、私は久しぶりに病床について、大きな手術を、二度までやりましたが、暮れの二十八日に初めて、ヘルス・センターヘ顔を出しましたとき、従業員諸君が、涙をたたえて私を迎えてくれましたので、私も思わず、大きな声をはりあげて、“王将”のかえ唄を歌ったしだいでございます。


 土地を作るがお国のためと
 かけた命を笑わば笑え
 できた広野は百万余坪
 ならぶ工場に月が照る

 へルス・センターの繁昌ぶりは
 みんな諸君の努力によるも
 世間はレジャーの殿堂なりと
 日増しに寄せくる客の波

 明日の希望を生き抜くからは
 何が何でもやらねばならぬ
 夢に描いた船橋港
 われらの理想はまた黙える


 本当はまだ百万坪はできていません。今度の十七万八千坪を含めて、八十三万坪ですが、別に民有地の塩田その他、十万余坪を埋めて、土地作りをいたしましたから、百万坪弱で…唄の文句としては半端でしたから、少々山をかけてしまいました。お笑い下さい。
                                 頓 首