おなかが冷えて、痛くて目が覚めました。ニュースを見ると、前日より最低気温が10℃低いとのこと。寒く感じるはずです。異常な気象状況だと思います。というか、日本ではなかなか無いことです。もっとも山などへ行けば昼夜の寒暖の差が大きいことってありますから、「異常気象」と言う表現ではないかもしれません。そういう意味じゃメディアによる日本語の乱れってあるかもしれません。まあ、変な理屈を並べないで、寒いなあ~ってことです。

さて、ちょっと平年と違うと、「地球温暖化」が言われたり、すぐに環境問題へつなげていく短絡的な発想がメディアでもはびこっているようで、知らないうちに、何でもかんでも今までと違うことは地球温暖化のせいにしているような気がしてなりません。名前は忘れましたが、新聞の記事や雑誌の記事で何度か読んだのですが、この地球の環境問題って、「仮説」に過ぎず、実証、立証はされていないようです。

むしろ、こういうことこそ中国人と議論するとおもしろいのではと思います。中国の悠久の歴史の中で、ここまで文明が発達していないにもかかわらず、周期的にあるいは過去において、50年とか100年というようなスパンの中で年間平均気温の上昇や下降、降雨量の増大や減少、あるいは突出した年や期間があったかもしれない。現代のように、自然現象を統計的・学術的にきちんと記録をしていない時期にも、文明の発達があった中国に限らず、それらの地域でも何か手がかりがあるかもしれません。たかだか数百年の歴史しかない国の科学者の根拠のない憶測、推測、想像力を大きく広げた作り話だったとしたら…。

ということから始まり、環境問題に取り組むことイコール○○○○○○という部分があるんじゃないかな~ってずっと思っていました。そして、気になっていた本のひとつである、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 」 武田邦彦著 洋泉社 を読み始めました。まだ最初だけですが、目次を見ていても、おもしろいくらいです。また読み終わったら、ここに書かせていただきます。

そもそも、我々が暮らしやすくなればなるほど、どこかが犠牲になるのは当たり前の話です。中国に駐在していたおかげで、良い自然環境を破壊していくことをずっと見てきました。日本に比べてずっとずっと遅れていた国、中国。日本人が口々に「昭和20年代の日本だよなあ」って懐かしそうに言っていました。

例えばトイレは汲み取りまたは自然。汲み取った肥は天秤棒や馬車や牛車でぽちゃぽちゃ音をたてながら運んで畑の作物へ。当然伝染病や寄生虫などは当たり前。でもそれしか作物を育てる方法がないのですから、仕方ありませんし、それで良しなんです。少しずつ豊かになってくると、化学肥料の登場です。当然、工場ができ、公害があり、運搬にはボロボロの貨物車が使用され古いエンジンで騒音と高濃度の様々な物質を含んだ排気ガスを撒き散らし貨物を運びます。でも、そのおかげで、作物の生産高が増え、供給が増えて、国民がその恩恵にあずかれるのです。

食器もそうでした。食器用洗剤なんて存在しないのですから、きれいな食器が使われるはずもないのですが、安価でとりあえず汚れを落とせるものがあればそれで汚れを落としたほうが良いのです。また、衛生的ではない箸を使って伝染病に罹患したりするんだったら、使い捨ての割り箸がいいやってことになるに決まっています。一気に広まるに決まっています。

より自分が楽になる生活をすればするほど自然環境に影響を与えていることは間違いありません。極論ですし、その地域の方に失礼になる言い方かもしれませんが、例えばの話です。瀬戸内海や九州や沖縄でもよいと思いますが、無人島を自分の財力で手に入れて、何もかも捨てて、自給自足の生活をしている方が、自分で作った紙と筆記用具など、情報伝達手段を用意して、環境問題についての問題提起をするんだったら話はわかるのです。説得力もあると思うのです。

それを、あなたの着用している下着から上着まで何でできていますか?それは何を犠牲にしていますか?あなたは今日朝起きて、何をしましたか?それは何を犠牲にしていますか?って聞いていったらどうなるのでしょうか。自分の存在を100%否定するようなことをもっともらしく平気で言えること自体不思議です。

ぜんぜん話が違いますが、マンション建設反対運動をする方々に申し上げたい。「あなたの家は何も犠牲にせず建てられたのですか?」。原子力発電所の建設反対運動をする方々に申し上げたい。「あなたは電気使っていませんね?」。「自分が一番大事」「自分さえ良ければ」もうこりごりです。これからの日本はどこへ行くのでしょうか。