船橋市立船橋高等学校 が、高校野球の千葉県大会で優勝し、甲子園出場が決まりました。

僕が通っていたのが、県船と言って千葉県立船橋高等学校。道路を挟んで斜め反対側といってもけっこう距離がありますが、船橋市市場にあるのが船橋市立船橋高等学校です。

私が、高校在学中は、特段スポーツが強かったわけではありません。私は、短かったのですが、サッカー部にいて、よく市船と練習試合をしました。当時の市船は、サッカーでは、県のベスト8クラス、我々県船はベスト16がいいところ、でした。私は同時に応援委員会にも所属しており、これは、委員会制で部活とは違いましたが、野球部の応援ですとか、文化祭での打ち上げの盛り上げ役などやっていました。

何年生のときか忘れましたが、野球の夏の大会の応援で団長をやったと思います。2年が団長で、3年が委員長だったような気がします。いずれにしても、この応援が大変でした。夏のまさに今の時期ですから、暑い。にもかかわらず、当時の高校野球の応援は、学生服で行うのが一般的でした。暑いのに、直射日光を受けるのに、黒の学生服です。今じゃとてもできることではありません。が、やっていましたね~。

特に、3年生の夏だったと思いますが(少々記憶があいまいなのですが)、まあ、とにかく責任者で、なにかをやりたいなあと思っていて、大会の前日に野球部のみんなと同じ頭にしようと思い、5厘刈りにしました。誰にも内緒で当日会場へ行きましたから、けっこうウケたというか、顧問の先生から「人に強制しなかっただろうな」って念押しをされたような記憶があります。まあ、応援団員に「男」を見せたつもりでしたが、あまりそういう効果はなかったようです。が、試合はあっけなく負けた記憶は残っています。

大変だったのはその後ですね。普段日に当たったことのない、頭皮。しっかり日に焼けました。もう当日から痛い。まあ軽度のやけど。当然ですが。結果、炎症が治まって、直っていく過程では、フケのように皮がむけて落ちること落ちること、それはすごいものでした。

またまた、話が外れましたが、その頃は、習志野市立習志野高等学校とか、千葉県立銚子商業高等学校とか、千葉の強豪校というのが決まっていたような気がします。そんな中で、後の船橋市教育長になった市川恭一郎先生が市船の校長に就任後、大きく変化をしていったようです。当時の大橋和夫市長とともに、市船を全国レベルのスポーツ強豪校にしたのです。あとはご承知の通り、サッカー、野球、バレーボール、陸上をはじめありとあらゆる競技で全国大会出場、あるいは優勝という偉業を成し遂げております。

それなのに、それなのに、恐ろしいもので、その市川先生や大橋市長が気に入らないということで、市船の部活動の強化を、教育的に問題ありなどという人がさまざまな形でプレッシャーをかけた事実もあり、大変残念です。いろいろな考えをお持ちになるのは結構ですが、多くの市民に喜びや誇りを与えている市船生がいて、それによって、船橋市の名前が全国的に知られ、「船橋」が認知されるようになった紛れもない事実があるにもかかわらずです。政争を教育の場に持ち込む不見識な教育者がおりました。