0541 あしや温故知新VOL54  大楠公戦跡「大激戦」打出浜の戦い

 

  碑は打出の東の端、国道2号線の北側にある。建武3年(1335年)2月10~11日の楠木正成と足利尊氏の打出合戦のとき、楠木正成がこの辺りに陣を張ったと言われています。

戦いの中心は打出浜から西宮浜にかけてという事らしい。楠木正成が陣を張った場所とありますが、それを証明するものは存在はしていません。

 

   1999年(平成11年)暮れから2000年春にかけての金津山古墳の発掘調査で、楠木正成が陣を張ったのは、この 200m ほど南にある金津山古墳だとも考えられるという新説もあります。

 

   実際、陣を張るには金津山古墳であったとする方が合理的かも知れません。

 

 どちらにしても、

打出は交通の要衝であったため、この頃たびたび戦いが起こっています。西宮浜から打出浜は軍事的にも重要な位置にありました。

 

  特に足利尊氏は打出合戦のあとも、1351年に足利直義と打出浜で戦っています。このときの戦いは打出浜から御影浜にかけて16回も交戦を行ったようです。

しかし、楠木正成は打出浜合戦の3ヶ月ほどあとに、九州から反撃に出てきた尊氏と神戸の湊川で再び合戦になり、敗れて戦死しています。

 

   それにしても、この楠木正成という人物は謎の武将です。

出身地も

『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあります。(得宗被官・御家人説)

 

一方で、得能弘一は楠木氏が駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした説を展開しています。

 

   鎌倉武士のイメージが違うとか単なる悪党集団の説をいう人もいるのには驚きでした。

 

  しかし、それは後醍醐天皇に協力する以前の話であって、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになったのは事実ですからこちらから考えると解りやすいかも知れません。

  

   現代のゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていたといいます。

 

 さて、尊皇思想がありますが、

江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に進言しました。そうすると長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えたと思われます。

 

   明治になり、南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られます。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のために従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られました。

 

   敵将の尊氏側の記録『梅松論』では、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」

 

「忠義に死すべし」という発想は当時の北朝方の武士たちにも感動させ、そのために正成は戦国、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と長きにわたって生き続ける「忠臣」となったのです。

 

「命惜しむな、名こそ惜しめ。」(命よりも自らの名誉と志を守れ!太平記)を有名な話があります。ご本人がそう言ったのか検証できませんが、大楠公は永遠に不滅なのでしょう。

 

その史跡が芦屋市にも残っているのです。



【参考文献】

芦屋市史 昭和31年 本編・資料編

芦屋市史 昭和46年 本編・資料編

芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年

芦屋の里 島 之夫 昭和4年

阪神間モダニズム 納屋 嘉治 平成9年

芦屋の生活文化史 民俗と史跡をたずねて 昭和54年 芦屋市教育委員会