043あしや温故知新VOL43 白洲次郎のダンディズム 後編

 

「互いに一目ぼれだった」という。翌1929年(昭和4年)11月に結婚。27歳と19歳の夫婦は、次郎の父・文平から結婚祝いに贈られた自動車ランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。

 

  その後旧制中学校卒業という学歴ながら、親のコネでセール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となって活躍した。

 

   1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。

 

  GHQの要求に対して次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたとその活躍は米国から評価され紹介されたものです。

 

  とにかく言いたいことをはっきりいう白洲次郎ですが、実は英国留学で得た語学と相手が「何を目的にしているかをはっきりと見えていたからだ」との証言も多くあります。

 

 「今の日本の若い人に、一番足りないのは勇気だ」これはGHQとの攻防で発したと言われています。

  戦後の動乱期に

「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい。」

 

   日本人と西洋人の精神構造を評したものだということです。

   これは英国留学の経験から出た次郎ならではの表現でしょう。

「イギリス人の気持ちが良いことの一つは、人間として公平な態度をとることだ」

 

  東北電力会長時代に日本の政治状況を嘆いて発したと言われています。

有名なエピソードに

   昭和20年12月のクリスマス。マッカーサー司令長官に白州次郎は天皇陛下からのプレゼントを届けた。

   部屋のテーブルの上はプレゼントでいっぱいだった。マッカーサーは床のどこかに置いていけというという仕草をした。

   すると次郎は「いやしくも天皇陛下の贈り物である。床などにおけない」と怒りを爆発させた。驚いたマッカーサーは、急いで新しい机を運ばせた。

 

 米国に一歩も引かなかった白州次郎は憲法制定に強く関わっていました。彼がいなければ、憲法は米国の思うがままにされたはずだった。

 

 謎の多い白洲次郎は偶像だという評価もあれば、日本を救った英雄であると言う人もいる。

 

  死を迎える数年前、何日かにわたって書類を次々に火で燃やした。長女の桂子さんが「何を燃やしているの?」と尋ねると「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという逸話が残っています。

 

   注射をするために利き腕をたずねた看護婦に対し「右利きです。でも夜は左」と言った言葉を最後に83歳で息を引き取ったと言われ、左利きとは”酒飲み”という意味も持ち、最期までシャレのきいた発言をしていた「日本一かっこいい男」であったことは間違いない。

 

   1600ccのエンジンを2400ccに積み替えた83歳最後の愛車はポルシェ911

 

  芦屋育ちの日本一のダンディな男!それが白州次郎なのです。