あしや温故知新 番外編 阪神淡路大震災のレクイエム 

 

平成7年1月17日午前5時46分。

「ドドン、グラリ、グラグラー!ドンドンドン」直ぐに目が覚めた。

「何だ。これは?北朝鮮からミサイル攻撃かぁ?」隣の部屋で妻や子供たちが寝ている。

急いで、その部屋に向かった。

子供たちはその時インフルエンザにかかっていました。


子ども部屋はタンスも転倒していたが娘(6歳)も息子(3歳)も無事だ。

 だが、リビングのピアノは転倒し、テレビを下敷きにしている。玄関においた水槽も落下し割れて熱帯魚がエントランスで跳ねている。

  妻の青ざめた顔・・・子供たちは何があったのか・・・布団を被ったままだった。

「みんな無事か?怪我は無いか?」ラジオでは阪神地域に地震があったことを伝えて途切れた。


 当時8階建てのマンションの最上階が私の住まいだった。高性能のライトで南のテラスから南の方向に立つ戸建て住宅を照らしてみると、黄色い土埃が立ち込め、いつもの風景とは違い、マンションの方が高い位置に盛り上がっているように見えた。

 実際、戸建て住宅の1階部分が倒壊していたのでした。

 

 早速に消防団作業着に着替え、子供たちと妻には実家へ向かうように伝えた。

浜町の父の家、当時は珍しい耐震化構造で作られていたので無事だった。

 

「頼む・・・・子供たちを守って、実家で連絡を待っていてくれ」

「どこへ行くん・・・とーたん。行ったらあかん」小学校1年の娘と幼稚園に行く予定の息子は私から離れない・・・。

 

「きっとたくさんの人が困っていると思うから、助けに行ってあげないと・・」

脚に「モスラや~」とじゃれてはいるが、力一杯しがみつく息子に

「なあ、とーたんの代りにママとマユを守るのはたっくんやからな!頼んだぞ・・」

 幼稚園入園前の息子を諭した。

 

 私は消防団員としての任務と議員としての使命を果たすべく、幼子たちをすべて妻に任せてオフロード専用バイクに、いざという時に使う防災器具の入ったバッグを背負って消防本部に向かった・・・・。

 

 だが、すぐに本部に到着することは無かった。


 途中で大勢に人たちから「人が埋まっている・・助けてください・・お願い怪我人です。病院へ連れて行ってください・・・」


 消防団の制服を見て、支援を求める声の多さに愕然とし、やれる範囲から救助作業にかかった。

ですが・・・・小さなお子さんをがれきから出してあげた時だった。

「呼吸停止・・・心肺停止・・・心臓マッサージを続けられたが、戻らない・・・」

お母さんが泣き叫んでいた。その声もその姿もはっきり覚えている。

 その小さなお子さんは戻って来なかった・・・・。

「なんじゃ~これは・・・なんでこんな小さな子が・・・」私は大声で叫んだ。

それからの記憶ははっきりしない。

 

 本当の苦難はこれから始まろうとしていた。

 

あれから39年の月日が流れました。


能登半島地震の現場の状況から被災者の皆さんの叫びが聞こえてきます。


被災者した者にしかわからないことばかりです。