037 あしや温故知新VOL37 詩人、富田砕花さんは高校野球ファン!

 

私は芦屋市立宮川小学校、同精道中学校、高校は私立報徳学園高校の卒業生です。

  実はこの3校に物凄い共通点があります。

それはいずれも校歌の作詞が芦屋市の「富田砕花先生」なのです。

芦屋に縁がある校歌としては、

1933 年(昭和8年)芦屋市立宮川小学校

1933  (昭和8年)芦屋市立岩園小学校

1937 年(昭和12年)私立芦屋大学附属高等学校、同芦屋大学附属中学校

1950 年(昭和25年)芦屋市立精道中学校

の作詞をされています。

因みに1950  (昭和25年)私立報徳学園を作詞されていました。

  富田先生の経歴紹介の中には、

大正2 1913年)23歳病気療養のため芦屋に転地

  大正9 1920年)30歳田島マチさんと結婚されたとありました。

 昭和9年(1934年)44 歌集「白樺」を出版し、同年に芦屋市宮川町の田島家隣家に移る。隣に谷﨑潤一郎が松子夫人と婚礼をあげた屋敷があり、小説『猫と庄造と二人のをんな』の舞台とされています。

 昭和14年(1939年)49歳現在の富田砕花旧居の場所で生活されています。

 さて、この田島家には私の同級生で幼少の頃に一緒にヤマハオルガン教室に通ってた子どもがいました。小学校でも中学校でも頭脳明晰で可愛らしく人気者でした。

 富田砕花先生は岩手県盛岡市 明治23年(1890年) 1115に誕生。本名・戒治郎さん。日本大学卒業。石川啄木の影響を受け、歌人として出発します。

  大正詩壇における民衆詩派の詩人として活躍しました。

 

   後に兵庫県芦屋市に住み、戦前の全国中等学校野球大会行進曲の作詞や日本体操大会の行進歌や大会歌を作詞したほか、全国の小、中、高校の校歌を作詞しています。

 

  その数は膨大です。

 明治41年(1908年)18歳与謝野鉄幹,晶子主宰の新詩社に参加し、筆名砕花で「明星」に短歌を発表しました。

 実はこの頃の与謝野夫妻は春日町で打出焼きの絵つけをしたりしているので芦屋市と関係があり、後に富田砕花先生の旧居は今も芦屋市民が大切に記念館として保存しています。

 

   1935年の全国中等野球大会行進曲に歌詞があったことをご存知の方は少ないようで、今は入場行進の時にメロディだけが流れて使っています。

  地元の県立芦屋高校が昭和21年に初出場し、兵庫県勢として初優勝した昭和27年。

富田砕花先生の行進曲で堂々と行進する選手たちはどう思っていただろう。

高校野球が大好きだった富田砕花先生がこっそりグランドの練習を観ておられたという。

また、富田先生は面白い人でした。

「細雪のモデルを巡って」

広報あしや第4号、昭和24年に

富田砕花(詩人)桑原石居(俳人)丹羽安喜子(歌人)が対談している。

 

「芦屋マダム」の由来の解説もめちゃくちゃ面白い。

 

   際立って美人は誰だったか?「なのりそ会」と言われる淑女の集まりがあったそうです。その知性と教養を作家の丸尾長顕が「芦屋マダム」を小説にしてから言われだしています。六甲ホテルでのダンスやゴルフをやったのがいけなかった・・・。反省されたり、与謝野晶子さんに添削してもらった話などメジャーな文化人たちが真面目にトークをしているのが面白い。

 

   谷崎潤一郎作品の「細雪」のモデルなった小学校はどこか?では富田先生が「昭和13年ぐらいに宮川町の自宅は谷崎潤一郎が2年ほど住んでその後の自分が住んだからモデルは宮川小学校だ」と証言されています。

 

芦屋の有名人は誰か?

モダンボーイで有名な白洲二郎氏を真っ先に挙げておられる。