025あしや温故知新VOL.25

宮川幼稚園と小槌幼稚園 その2

 

 昭和35年に芦屋市は全国に先駆け2年保育の実施を決めました。

 

  文教都市として、精道小学校、山手中学校や精道中学校にも多数の阪神間の子供たちが越境入学をするほど公教育のレベルは高く、人気の名門校になっていました。

 その余波は幼稚園にまで押し寄せていたという状況にありました。

 

   元々、希望者全員が2年保育を受けるだけのキャパシティがなく、2年保育希望者は抽選によって決められていました。

 

 1年保育か2年保育か運命は「公開抽選」で行われました。その結果、2年保育に入れなかった保護者さんたちは私立へ行くか、1年保育で我慢するかの選択になるのです。

 

  そこで芦屋市教育委員会と芦屋市は幼稚園建設に力を入れます。小槌幼稚園も打出地域の方々のボランティアでの建設作業の手伝いもあったりして昭和39年に宮川幼稚園から分園の形で完成しました。


 当時、入園は宮川幼稚園、卒園が小槌幼稚園という稀なケースが誕生しています。昭和33年生まれから34年生まれの子供たちです。

 

   私がその学年ですのでよく覚えています。宮川幼稚園でお別れ会が盛大に行われました。


   宮川幼稚園は打出浜町。小槌幼稚園は打出小槌町。打出小槌幼稚園でなかったのはおそらく、この住所の「打出」をどう使うかだったのかも知れません。


   両幼稚園は宮川小学校校区ですから、宮川小学校が精道第2小学校という形で出発しなかったら、間違いなく打出小学校と呼ばれたと打出地域の方々はおっしゃいます。


   後に打出浜小学校として打出の名が芦屋に誕生するのですが、宮川小学校の校歌の3番に「打出の浜によせかえす~時の潮に苔むすや」という歌詞があります。

 しかし、打出浜小学校が出来た当時、この3番を歌わなくなりました。震災と建て替え工事で宮川小学校の校庭が使えなかった時に、打出浜小学校で宮川小学校の運動会が開催されたことが1度だけありました。


  その時に長く歌われなかったこの3番を復活して歌いたい。宮川小学校と打出浜小学校が元は同じ校区であったことなどを紹介して盛大な拍手の中で運動会は大成功に終わりました。 その後はこの3番が復活し歌われるようになったのです。

 

 こうやって芦屋市民は幼稚園や小学校を大切な地域の宝として育ててきました。

ですが、時代と共に埋もれてしまい、簡単にその長い歴史に終止符を打ってしまう今のやり方は同意しかねます。


   これまでの地域で育ててきたものに対して相応の敬意を払うべきです。


「自分達行政がこの芦屋を作ったなどと思うべからず!  地域市民が作ったものが芦屋なのだ」


【参考文献】

芦屋市史 昭和31年 本編・資料編

芦屋市史 昭和46年 本編・資料編

芦屋郷土誌 細川道草 昭和38

芦屋の里 島 之夫 昭和4

阪神間モダニズム 納屋 嘉治 平は成9年

芦屋の生活文化史 民俗と史跡をたずねて 昭和54年 芦屋市教育委員会

芦屋市教育委員会50年誌