たった一機の迎撃!

エノラゲイを撃墜せよ。


2009年 SNSmeet-meに書いた雑文より転載します。


テニアン北飛行場を出撃した米第20航空軍509CG所属のB-29

エノラ・ゲイ


1945年8月6日、午前7時過ぎ、四国上空を広島方面に飛ぶ一機のB29があった。


 陸海軍はこの機の侵入をレーダーにて探知していたが、本土決戦のための戦力温存策もあっても迎撃は行わなかったと記録されている。

長くそう語られていたが、しかし、実際には一機の陸軍戦闘機が迎撃していた。


なぜ、この事実が伝えられていなかったのか不思議でした。


しかし当該機エノラ・ゲイが日本上空で一機の戦闘機による迎撃を受けていたことは米軍側の記録にも残されていた。


たった一機の迎撃。

おそらくこれは、知られざる「原爆秘話」

 

 以下に引用するのは、その迎撃機の搭乗員が残したという手記を、さらに伝聞として記したものの一部と作者は部隊所属を伏せられた手記。その手記が誰の手によるものか、もはや知る由もない。


 おそらく歴史資料としては信憑性に乏しい二次資料でしょう。

ですが、後に記す米軍側の資料と比較検証しても、大きな矛盾はない。ただの作り話と斬って捨てるには惜しい。傾聴する価値はあるだろう。と著者はいう。


以下引用です。

 所属部隊を伏せた手記、更にその伝聞だがこの「たった一機の迎撃」はB29側の公式記録や手記にも残っている。迎撃に上がったのは二式複座戦闘機キ45改・屠龍、低速ながらも機首に備えた大口径機関砲、そして双発による高出力からこの連射に耐える頑丈さ。こうした理由から主に防空・爆撃機迎撃の任に充てられていた機体です。


 同機はすれ違い様に、エノラ・ゲイに向けて20mm機関砲の一連射を行う。

 銃撃は逸れ、反転して再び掃射を加えようとする屠龍。しかし高高度、更に物資不足からオクタン価の低い燃料を用いていた事もあってか失速、攻撃位置を逸し降下してエノラ・ゲイは遠ざかって行った。

 

 基地から「先行した単機も爆撃せず離脱、恐らくは偵察目的と認む。追撃の必要なし」の通信を受けた同機は燃料の不足も危惧されるため帰還。そして帰還した基地で聞かされたのは、「廣島への新型爆弾投下」。同機の搭乗員に日を追って、その余りに悲惨な被害が伝えられるそれは戦後、そして搭乗員が一般市民として復員してからも続いた。


「何故あの時、体当たりしてでも止めなかったのか」


 そうした自責が、この搭乗員氏にとって数分間の会敵時間に凝縮された「あの戦争」の全てになり、そしてそれを思い続ける意味での余りにも長い「戦後」はその最期の瞬間迄続いたと云う。以下蛇足ながら出来過ぎた話の様で、どこかで話が織り交ぜられたかも知れない。と著者の感想です。


 晩年まで、同氏は194586日早暁の出撃から会敵・離脱迄を繰り返して夢に見たと言うしかし、最後の年の「あの日」に近づく日毎により鮮明な夢の形をとり始め、具体的に先に没していた基地隊員達が「今度こそ」等と声を掛ける様になっていたと云う。


 そして死の床にも同じ夢を見ているらしい同氏の、没時の顔立ちは非常に穏やかなものになっていた。


と著者は書いています。


私の感想は

 迎撃するなら第343海軍松山航空隊ではと考えておりましたが、エノラゲイの作戦の迎撃なら稼働機は紫電改か紫電(松山航空隊は当初は零戦で編成されていました。)でしょうが迎撃に上がったのは二式複座戦闘機キ45改・屠龍です。


 陸軍機だとしたら、単独で迎撃に向かっていた可能性が高い。しかもエノラゲイ搭乗員が目視していた証言は事実です。


 長く私はあのB29爆撃機に日本軍が易々と原爆を投下させたとは思えなかった。


また、このたった一機の迎撃の話。


搭乗員が長く語れなかったことは納得できます。

ですが、日本の歴史の記録にはありません、

なぜなら、証明する日本側資料無いのです、


このような話は逸話でしかないのです。


第二世界大戦は戦勝国によって都合良く変えられた歴史になっている事も多く存在しています。