017あしや温故知新VOL17 芦屋市立宮川小学校の伝説
私の母校、芦屋市立宮川小学校は昭和2年(1927年)第2精道尋常小学校として創立されました。
その経緯が記録では淡々と掲載されています。
現実的には明治5年に莵原郡芦屋小学校(現精道小学校)が開校されましたが、ここの入学希望者が多く、昭和2年に第1精道尋常小学校は現精道小学校とし、この第2精道小学校(宮川小学校)は現在の県立芦屋高校の場所で開校したのが事実です。
昭和20年 8月6日、戦災により校舎の7割が焼失と宮川小学校の沿革史には掲載されていますが、昭和20年8月5日深夜から翌未明に空襲がありました。
3年後の昭和23年 4月 1日、南宮町校舎(現精道中学校)へ移転し「宮川小学校」の名称となり、昭和26年(1951年)に現在の浜町に移転したのです。
私が宮川小学校に在籍していた頃、北校舎の南中央部に池があり、その池の傍に「第2精道小学校開校の碑」が立っておりましたが、いつの間にか、その存在が不明になってしまいました。宮川に浮いていたとか、誰かが持ち出して廃棄したとか言われましたが、解体の時に誤って壊したというのが事実のようです。
昭和42年12月 1日 、創立40周年記念として総合体育館と共にコンクリート製「ひつじ」が完成しました。
私が小学校2年生の時です。西門の桜の木の下にその「ひつじ」はあったのですが、昭和44年11月24日、木造中央校舎の火災により桜は焼失しています。桜は東門だけになっています。
その頃から東門を「さくら門」、西門を「ひつじ門」と呼びましたが、運動場側の東門を「鉄棒門」、西門を「ブランコ門」と4つの門があり子供たちが解りやすいように呼び方が変わりました。
現在も「さくら門」と「ひつじ門」が残っています。
何故、「ひつじ」のオブジェが出来たのかというと
宮川小学校移転の時にどうもひつじを家畜として飼育していた家があったようで子供たちがそのひつじを見て登校していた風景があったらしく、そのひつじを懐かしがった卒業生の意見で急遽「ひつじ」になったという話や当時の校長先生がひつじ年生まれだったという説もあります。
ひつじの仲間想いの集団行動、聴力が優れ、視野は 270–320°もあり、頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。周りを「よく見て聞いて集団行動をして欲しい」という願いが込められて作られたという説、ヨハネによる福音書のひつじ門をモチーフにしたという説もあるぐらいに逸話が多く残っています。
どの説が正しいのかは未だに不明ですが、私はひつじは小学校のシンボルで、芦屋警察署の門にある「みみずく」と同様、子供たちに愛され見守っているのだろうと誇りに思います。
宮川小学校のひつじ門が永遠に残ることを願っています。
【参考文献】
芦屋市史 昭和31年 本編・資料編
芦屋市史 昭和46年 本編・資料編
芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年
芦屋の里 島 之夫 昭和4年
阪神間モダニズム 納屋 嘉治 平成9年
芦屋の生活文化史 民俗と史跡をたずねて 昭和54年 芦屋市教育委員会
宮川小学校50年記念誌