あしや温故知新VOL248   市民憲章のお話その1

 

 芦屋市民憲章は「わたしたちのまちあしや」という小学校で学習する副読本で学びました。芦屋市立宮川小学校でこの憲章を暗記し答えるテストがありました。


 昭和39年ですから、ちょうど小学1年生になる前です。東京オリンピック(1964年)の年でした。阪神タイガースがリーグ優勝をしたのですが、東京オリンピックと王選手のホームラン記録で優勝は一部の盛り上がりで終わった・・・・。


 ともあれ、私には忘れられない時にできた市民憲章です。


 これを守らないと芦屋市から退去させられるとか、子供ながらにちょっと怖い記憶があります。

 だからというわけではありませんが、小学校に入って4年生ぐらいまではこのテストはみんな真剣に取り組み、九九を覚えるより市民憲章。


私にはこんな記憶が残っているのです。

さて、


この憲章が出来た経緯は芦屋市のホームページにも紹介されています。

昭和26(1951)

特別法によって「国際文化住宅都市」に指定されましたが、このとき住民投票で示した市民の総意は、「住宅都市として最高級の街づくり」の決意でした。

昭和39(1964正月

市民憲章を持とうではないかという話がでて、内海市長が市議会の協賛をえて、あっせんにつとめました。


昭和39(1964)124

1回発起人会(各種団体長12)が開かれ、回を重ねて大綱を定めました。


昭和39(1964)49

市内の各種団体代表や学識経験者55名で構成する芦屋市民憲章制定委員会(代表 広瀬 勝代 婦人会長)が発足、起草委員会(富田砕花氏他13)に文案の作成を委嘱しました。


昭和39(1964)425

起草委員会から制定委員会に答申され、制定委員会がこれを採択しました。


昭和39(1964)53

制定委員会から、芦屋市民憲章正本として憲法記念日の市民憲章制定式場において、市長に手渡し、市長は即日全市に告示する旨、宣言しました。 

 

えっ・・・昭和39年のお正月に思いついた内海市長のアイデアだった。

55名の市民憲章制定委員会。

これは一大事だったろうと思う。


つづく