【阪神淡路大震災のレクイエム】その1


平成7117日午前546


 子供たちはその時インフルエンザにかかっていました。

 子ども部屋はタンスも転倒していたが娘も息子も無事だ。


 だが、リビングのピアノは転倒し、テレビを下敷きにしている。玄関の水槽も割れて熱帯魚がエントランスではねている。

  妻の青ざめた顔・・・子供たちは何があったのか・・・布団を被ったままだった。


「みんな無事か?怪我は無いか?」ラジオでは阪神地域に地震があったことを伝えて途切れた。

 

 消防団作業着に着替え、子供たちと妻には実家へ向かうように伝えた。

 浜町の父の家、当時は珍しい耐震化構造で作られていたのだ。

 

「頼む・・・・子供たちを守って、実家で連絡を待っていてくれ」


「どこへ行くん・・・とーたん。行ったらあかん」小学校1年の娘と幼稚園に行く予定の息子は私から離れない・・・。

 

「きっとたくさんの人が困っていると思うから、助けに行ってあげないと・・」

 脚に「モスラや~」とじゃれてはいるが、力一杯しがみつく息子に

「なあ、とーたんの変わりにマユとママを守るのはたっくんやからな!頼んだぞ・・」

 幼稚園入園前の息子を諭した。

 

 私は消防団員としての任務と議員としての使命を果たすべく、幼子たちをすべて妻に任せてオフロード専用バイクに、いざという時に使う防災器具の入ったバッグを背負って消防本部に向かった・・・・。

 

 だが、すぐに本部に到着することは無かった。

 途中で大勢に人たちから「人が埋まっている・・助けてください・・お願い怪我人です。病院へ連れて行ってください・・・」


 消防団の制服を見て、支援を求める声の多さに愕然とし、やれる範囲から救助作業にかかった。

ですが・・・・小さなお子さんをがれきから出してあげた時だった。

 

「呼吸停止・・・心肺停止・・・心臓マッサージを続けられたが、戻らない・・・」

お母さんが泣き叫んでいた。その声もその姿もはっきり覚えているのに。

 その小さなお子さんは戻って来なかった・・・・。

「なんじゃ~これは・・・なんでこんな小さな子が・・・」私は大声で叫んだ。


それからの記憶ははっきりしない。

本当の苦難はこれから始まろうとしていた。


【私は両脚に時々、激痛が走るような状況にありましたが、まさか10年後に車椅子を使うとは思ってもいませんでした。消防団員としての記録ですが、後世に残しておきたい】