あしや温故知新VOL246 6芦屋消防と父は消防一筋だった(芦消その6)
昭和42年12月 化学消防ポンプ自動車を芦屋市消防署に配置した。市制50周年記念誌の「芦屋今、むかし」写真集に昭和45年とキャプションがありましたが、私が見たのが昭和43年でした。ウルトラセブン「ウルトラ警備隊西へ」の撮影が終わった後でした。
この化学消防自動車は薬剤をタンク内に貯蔵して、ポンプで揚水した水を混ぜて放水銃で泡状にして火点に放水し消化する消防車で、車両火災や石油製品工場系に効果があるとした特殊な消防車両です。
昭和43年11月 はしご付消防ポンプ自動車(24M級)を芦屋市消防署に配置した。
昭和44年11月 芦屋市立宮川小学校が大火災。中校舎(木造建築)焼失。消防隊員だった父ら隊員が防火扉の存在を事前に知っていたのでこの扉を使って延焼を防いだ。この防火扉のことを新聞やニュースで日本中にその存在を知らしめ、校舎の防火扉の設置が進んだ。
昭和47年3月 消防出初式を中止し,消防記念日に切換えて式典を実施しています。
昭和48年3月 望楼監視業務を廃止した。昭和37年に新築した消防庁舎は見張り員が望楼に上がって市内監視体制を取っていた時代があった。
私も父と何度か登らせていただきました。この望楼監視の代わりにテレビカメラでの監視や無線通信用アンテナを設置していました。消防本部の組織等の機構改革を行い、消火活動と火を出さない業務として予防課を新設しています。
昭和49年4月 四代消防長に小倉公平が就任した。消防職員13人増員,総員66人とした。
昭和54年 10月芦屋市高浜町7番2-104号に芦屋市消防署高浜分署を開設した。
(職員17名,車両3台:タンク車,救急車,連絡車を配置した。)
実際には、この高浜分署は約2年前に準備室として開設準備をしていました。私の父、福次が初代の分署長でした。毎晩、遅くまで自宅に戻らないので聞くと、高層住宅の救助・救急・消火活動など安全な街づくりのためにASTMの人たちと打合せしているのだと言っていた。
ただ、高層住宅も結構だが、安全に消火・救助ができるのは7階程度、自動消火装置や火災・救急指令を自動で行う装置などを共同開発していると言っていました。開所前には自宅応接室で、大声で激論「君ら、ここの住む住民の安全が確保できないのに、これを許可などはできんやろ。やり直しや!あかんもんはアカン!」私はしっかり記憶しております。
はしご付消防ポンプ自動車(30M級)を高浜分署に配置された時も、「これでも最上階には届かない」そうつぶやいていました。
昭和55年2月 芦屋市消防署に救助隊が発足した。芦屋初の救助工作車が配置されました。
父は消防大学でこの救助隊の先進事例と消防予防・火災防御をまとめていました。
後に昭和62年(1987年)私が大学の自動車工学研究室で自動車の設計をやっているというと四輪駆動の救助工作車(レスキュー車)を設計してもらえないかというので、卒業研究には「四輪駆動車両のレスキュー専用車(インターセプター)の設計と効果」と題して研究結果を父にも1冊を渡しました。レスキュー車は更新された時、四輪駆動車での特殊車両が導入された車両に私のアィデアも取り入れてありました。(聞いていなかったのでちょっと感激しました)
昭和57年(1982月)長く休止していた芦屋市消防出初式が復活しました。
つづく
芦屋市史 昭和31年 本編・資料編
芦屋市史 昭和46年 本編・資料編
芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年
芦屋の里 島 之夫 昭和4年
阪神間モダニズム 納屋 嘉治 平成9
芦屋の生活文化史 民俗と史跡をたずねて 昭和54年 芦屋市教育委員会
芦屋市消防本部 記録写真