あしや温故知新vol 228 芦屋の金融の歴史 その1
民間の相互的な金融組織で「頼母子講(たのもしこう)・無尽講あるいは講」というのは鎌倉時代に一団の人々が寄り合って少しずつ金や穀物を出し合って、一団の困窮者に融通し救済したことに始まっています。
江戸時代にはこの組織に種々の工夫が加えられ、単に救済から商工業者が営業資金を調達したり、庶民が住宅や物品購入する資金調達をするために利用されました。いわゆる営業無尽です。
大正時代に入ると無尽業法が制定され、1951年(昭和26年)に相互銀行法を制定し相互銀行に改組されました。
武庫郡誌 大正10年(1921年)によると金融機関として、「頼母子講」の記載があり、生活困窮者を近隣縁者より、救済の目的で普段は資本金の融通を目的とする者が多く、寺社の保存講などがあり、営業的なものには、布団講、畳講などもあった。期限の長いものは20年ほどで短いものは2年ぐらいで、一口の金額は50円から100円であったと記されています。
大正11年(1922年)9月1日 兵庫県武庫郡精道村芦屋字樋口新田1-919番地(役場前辺り地図参照)に灘商業銀行芦屋支店として営業開始したのが始まりです。
昭和7年(1932年)西宮銀行・武庫銀行 を合併して兵庫県武庫郡精道村芦屋字開森1-948に西宮銀行芦屋北出張所を開設。
昭和11年(1936年)政府は一県一行の方針で各地に点在する小銀行を合同させることになり、日本銀行神戸支店長、岡野清豪氏のあっせんで合同が始まった。(岡野清豪氏は1890年1月1日 – 1981年5月14日没、昭和期の政治家・銀行家。第2代三和銀行頭取(1945年〜1947年)。数次にわたる吉田茂政権において、自治庁長官・文部大臣・通商産業大臣などに起用された)
昭和11年(1936年)12月2日、兵庫県下の七銀行が合併(神戸岡崎銀行、第五十六銀行、西宮銀行、灘商業銀行、姫路銀行、高砂銀行、第三十八銀行)、株式会社神戸銀行が誕生しました。
昭和25年(1950年)11月15日、神戸銀行 芦屋グランド建設(読売巨人軍が竹園旅館に宿泊する時に時々練習していました)
昭和31年12月12日、神戸銀行設立20周年記念式典開催。
昭和43年(1968年)に都市銀行・太陽銀行に転換しました。そしてかつて先輩後輩の仲であった河野と石野との“トップ会談”により、神戸銀行は太陽銀行と合併することになりました。
これが、あの一族なんちゃらのストーリー、、。
つづく
【参考文献】
芦屋市史 昭和31年 本編・資料編
芦屋市史 昭和46年 本編・資料編
芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年
芦屋の里 島 之夫 昭和4年(地図)
阪神間モダニズム 納屋 嘉治 平成9年
芦屋の生活文化史 民俗と史跡をたずねて 昭和54年 芦屋市教育委員会
ドキュメント銀行 前田裕之 ちくま書房