あしや温故知新VOL226 芦屋の電話のお話

 

 グラハム・ベルが電話機を発明してから14年後の1890年(明治23年)に、日本初となる東京?横浜間での電話サービスが開始され、明治23年といえば、第一回目となる衆議院の総選挙や帝国議会が開かれるなど、日本が近代化に向けて本格的に動き出した年です。

 当初の加入数は、東京で155世帯、横浜で42世帯のわずか197世帯でした。

 

 今回は芦屋市の電話の歴史を紹介します。

明治37年西宮より猿丸又左衛門氏が自宅に電話を初めて設置したのが始まりです。

 大正3年(1941年)116、芦屋郵便局で磁石式電話交換が開始され、当時の加入者は32名でした。大正8920100回線単式交換機3台を設置し、加入者は232名となりました。


 昭和の時代に入ると昭和21126日、交換機は14台に増設され、加入者は1,047人になっています。


 昭和4125日には加入者の急増により、精道村芦屋字大桝791に電話局舎が新築されました。当時の資料によると、延建402坪余り工費約22万円。


 これが旧芦屋郵便局電話事務室は、逓信省技師の上浪朗が設計し、1929年(昭和4年)に竣工しました。


 太平洋戦争時の1944年(昭和19年)頃には、防空迷彩のために茶色の外壁がコールタールで黒色に塗装され、次いで1968年(昭和43年)にはリシン吹付塗装で白色の外観となりました。

 1968年に電話加入者が増加し、別の場所に新しい電話交換局(芦屋別館)が設置されたため、1981年(昭和56年)に電話交換局としての役目を終えました。


 現在もその姿は現存しており、「芦屋モノリス」として現役の建築物として活躍しています。

 

  さて、話は戻り!

 昭和52月2日より、磁石式交換方式を自動交換方式にされ、加入区域は精道村の芦屋・打出、本庄村深江の大部分を普通区域とし加入者は1,463名となりました。

 

 昭和841日には普通区域は精道村・芦屋・打出・三条・津知、本庄村大字深江・本山村大字森としました。

 

 昭和2461日 電気通信省の設置により、組織が改正され芦屋電信局と併合され、芦屋電報電話局となりました。


大まかな年表は説明は以上です。


つづく