長崎原爆の日 8月9日
広島から4日後、日本では特殊爆弾が広島に投下されたことで本土防衛を強化した。
しかし、迎撃用の戦闘機も搭乗員も十分ではなかった。
米国長距離侵攻用重爆撃機B29はテニアン島から先に広島を爆撃したB29 エノラゲイを伴って飛び立った。
広島に続いて、米国は核攻撃を行うため、目標の北九州工業地帯のである小倉に向かった。
午前9時40分には小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし、煙幕霧で爆撃手が目標を目視できなかったと報告した。
その後、45分間も、爆撃行程を繰り返したが・・・すべてを失敗した。
このために、予定以上の燃料を消費してしまい、さらに天候不良と機体の予備燃料ポンプの故障も続いた。
その頃、日本軍の高射砲も必死の応戦をしていた。
陸軍福岡の芦屋町飛行場から飛行第59戦隊の陸軍キ-100五式戦闘機、海軍築城基地からも零式艦上戦闘機10機が緊急発進し、迎撃に向かい高高度戦闘態勢に入った。
その結果・・・
目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃には小倉市上空を離脱した。
午前10時50分。長崎県上空へ侵入。
そして・・・・
午前11時2分、雲の切れ間から、広島に投下した爆弾の約1.5倍の破壊力の原子爆弾を投下した。
B29重爆撃機の名前は
「ボックスカー」
爆弾の通称は「ファットマン」
広島のウラン235型原爆と違ったプロト二ウム239型で威力は広島が一般火薬の1万5千トン相当と比較すると2万1千トン・・・に増していた。
日本は米国の手によって二度目の核攻撃を受けた。
長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形のため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」を遥かに超えた被害になったはずだった。
「一発の原爆で長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡!」
たった一発の爆弾が一瞬にして多くの生命と人生を奪い取ったのだ。
人類は核兵器廃絶に向けて動き出したが、77年経ったのに核兵器保有国は逆に増えてしまった。
いつか広島や長崎のような犠牲者がまた出るのではないか。
その時には、時の指導者たちはこう言うだろう。
「早期に戦争を終わらせるために、仕方がなかった」と、、、
こんな言葉を絶対に言わせてはいけない!
核兵器は大量虐殺兵器でしかない。
これがある限り、世界の平和はあり得ない。
多くの犠牲者に誠の哀悼の意を捧げ、
ご冥福をお祈りします。