あしや温故知新 vol211 鷹尾城跡と若松物語
永正8年(1511年)細川高国、澄元両軍勢による鷹尾城を巡る攻防戦は、阪神地方の代表的な古戦としてしられている、標高260m中世の城砦としての遺構は尾根筋に平行して走る掘割らしきものをのぞいて何も残っていない。
それどころか、この城山に前大戦の高射砲を備えるための石を積んでいたという目撃談もある。
この山城を築いたのは、高国方の国侍、摂津野島豊島地方の豪族、瓦林政頼です。
この地は阿波の澄元方の進路を押さえる交通上の要所であり、広大な灘筋を制圧するに絶好の場所でした。
激戦の末、一時は城側が勝利しましたが敗戦を聞いた澄元側の赤松勢は大軍を播磨から繰り出し、一気に押し寄せ「さかしき谷、高き岸ともいわず」「息をもさせず」攻め立てたのでついに政頼らは城を捨て伊丹城に逃れた。
ところで、この城の攻防にはひとつの悲壮な物語あります。
松若物語
勢力の強くなった政頼に降伏を申し入れきた澄元方の地侍の一人に河島兵庫助という者がいた。政頼は彼を好遇し、鷲尾城を守らせ歌道にたけたその息子松若を居城の越水城で側近として召し使った。
ところが、兵庫助は敵に内通しているのではないかという風潮が高まり彼は、越水城で殺される運命にまで追い詰められた。
利口な松若はその危機を父へ知らせるために鷹尾城、はせさんじたが、時既に遅しと感じたのか、逃亡することもなく、叔母婿、今西将監の宿舎に入り、覚悟のほどを述べて政頼に取次を頼んだ。政頼はこれを聞き入れ、近頃けなげな振舞いとふびんだったが、あまり利発さを恐れる家臣もあり、ついに西宮の六湛寺で殺されることになった。
時に松若若干16歳 時世に
「父に我つかふ願も三瀬川ともに越べき道のうれしさ」の一句を残して、首を討たれたのであった。
「瓦林政頼記」に描かれた史実に近い悲話です。
どの時代も猜疑心が多くなると個人の思いは通用しないことがある。武家の世界ではこのような悲話があまりにも多い。