あしや温故知新VOL209 打出焼きの復活を


 明治時代の話です。

芦屋市には代表的な焼き物が存在していました。


「打出小道プロジェクト」として「さる公園」(打出公園)だけのことでなく、私なら打出焼きの復活を提案したでしょう。

 

 「精道村は石材と粘土の産地ということも好都合だ。」 





 齋藤幾太氏は「打出丘陵の良質の粘土層に着目、京都から陶工を招いて、番頭の坂口庄蔵(屋号・砂山)に作陶させた」と記録にあります。(あしや温故知新VOL33)

   それ以外の記録としては、兵庫県芦屋市打出町に明治39年に琴浦焼の創始者和田九十朗正隆が斉藤幾太に協力し、創業と記録されている文献も存在しています。

打出の土地は古くから壁土の産地でしたので、それに着目した斎藤幾多氏の功績のひとつです。

 

   時は明治の終わり、近く開窯された「打出焼」は、明治39年から明治43年、斉藤幾太から初代阪口砂山(庄蔵)、二代目砂山(淳)までの間、旧打出村(現在、兵庫県芦屋市春日町)で作陶された京焼です。

 

   有名な話としては、西宮海清寺の南天棒の生前葬の棺桶は当時の新聞をにぎわせたと言います。


   その後、歌人・作家・絵師を始め各分野の文化人が訪れ、絵付けをしたとされています。

    打出焼の素焼きに与謝野夫妻が歌を記すという企画が催され、与謝野鉄幹・晶子夫妻の書いたお皿が来会者への贈り物となりました。


  与謝野寛(よさの ひろし)鉄幹はこの芦屋訪問の1年9ヶ月後に亡くなっています。(1935年(昭和10年)326没)

 







    戦後の打出焼は昭和24年、芦屋市の広報誌「あしや」に「海を渡る打出焼」と題した記事が掲載されています。

 与謝野晶子夫妻が打出焼きのろくろを回して制作したという逸話も残っていました。

 

    これは、米国人観光客へ打出焼の紹介と宣伝を依頼された米国船会社アメリカン・プレジデント・ラインズ(APL)神戸支社のキリオン氏が、打出焼を大変珍重したと言われ、「将来、打出焼がアメリカ、ヨーロッパに船出する日が近い」と期待を込めて書いています。


    当時、APLは、米国西海岸と日本を結ぶ太平洋航路に定期貨客船を運航していました。  昭和28年、皇太子殿下(今上陛下)が外遊の際、APLのプレジデント・ウイルソン号で渡米されました。


   芦屋市制施行10周年の引出物として

昭和25年、芦屋市の市政施行10周年記念式典で、市章入りの打出焼が引出物として参加者に配られ、翌年より高野山の寺院から記念品の注文が入っています。


    昭和28年、結婚式の引出物に打出焼の茶碗を注文した市民が多数現れたそうです。

 

  【参考文献】

芦屋市史 昭和31年 本編

芦屋市史 昭和46年 本編

芦屋郷土誌 細川道草 昭和38

芦屋の里 島 之夫 昭和4

1979年 芦屋市教員委員会 芦屋の生活文化史