あしや温故知新VOL204   芦屋にあったゴッホの幻のひまわり

 

 ゴッホが描いた花瓶に入った「ひまわり」は全部で7作品ありました。東京の「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」で観ることができます。


 しかし、大正時代に、日本にはもう一枚「ひまわり」が存在していました。


 広報あしやで特集がありましたが、私はちょっと違う角度で記載したいと思います。


「芦屋市のひまわり」は1920年実業家の山本願弥太(こやた)さんが購入したものですが、購入価格は2万円です。現在の価値ならば2億円程度になります。これが安いか高いかと言えば、破格の安さです。


山本さんは1886年(明治19年)大阪生まれ。綿業貿易で成功された実業家です。

しかし、文化人で句集も出版しているほどです。 


彼に白樺派リーダーの武者小路実篤は。何としても購入して欲しいと何度も懇願されし購入を決めたのです。現在ならファンセント・ゴッホを知らない人はいないでしょうが、時は大正時代。ゴッホの存在を知っていた人はごく一部です。


山本氏自身が武者小路実篤氏とは1歳違い。山本氏は文化人と言っても実業家、武者小路実篤氏は文学者です。


 この白樺派のメンバーが凄い。

志賀直哉、有島武郎が参加。画家は梅原龍三郎、岸田劉生などそうそうたるメンバーです。

 白樺派の雑誌「白樺」は斬新な文学や西洋美術を紹介しています。




 ルノワール、セザンヌ、ゴッホを紹介し、日本人はその存在を知るきっかけになったのです。

「ひまわり」は山本願弥太氏の豪邸にやっと到着し、美術館建設後に展示することになっていたのですが、それまではリビングルームに飾っておられました。


 記録では、美術館ができるまでの間の意味で「預かった」となっているようです。

しかし、時代は戦時中。

「ひまわり」の疎開先も探し、銀行の金庫や地方も探したようです。


しかし、1945年8月5日から6日の神戸空襲によって山本邸は全焼、「ひまわり」も跡形もなく焼失してしまいました。

 

 山本願弥太は1927年の金融恐慌で、会社が倒産し、邸宅も処分しましたが、「ひまわり」だけは預かりものだからと手放していません。

 

戦後、山本願弥太氏と武者小路実篤氏は再会しますが、山本氏が「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げたと言われています。


 娘さんの回顧録では「父は武者小路実篤さんたちの情熱に賛同してあの絵を買いました。倒産して自宅を手放した時もあの絵だけは売らなかったのです。それは「ひまわり」が自分のものではなく、預かりものだと思っていたからです。」と言っておられます。


 この焼失した「ひまわり」ですが、黄色い絵が代表的ですが、芦屋にあったひまわりは深く落ち着いたロイヤルブルーの背景が特徴だったともので7枚描いたひまわりの唯一の作品だったことが分かっています。


ところが、

2014年徳島県の「大塚国際美術館」で「芦屋のひまわり」として原寸大の陶板画として再現されています。

 

 

【参考文献】

芦屋市史 昭和31年 本編

芦屋市史 昭和46年 本編

芦屋郷土誌 細川道草 昭和38

芦屋の里 島 之夫 昭和4

精道中学校10周年記念誌

2014年集英社 朽木ゆり子著「ゴッホのひまわり全点時の旅

2014年徳島県「大塚国際美術館」画集