あしや温故知新VOL193 三田谷治療教育学院の創設者 三田谷啓先生物語
三田谷治療教育学院は昭和2年8月1日に創設されました。
その目的は身体・精神にいくらかの障がいを持つ児童に、養護と指導を行うことにより、児童生活の改善を主とするものでした。当初は児童1人からの出発でしたが、後に財団法人組織になり、さらに社会福祉法人に改めその存在と期待は日増しに大きくなりました。
この学院で生活をする児童の殆どが精神・知的障害を持ち、昭和13年以来、付属の翠丘小学校を併設し、これは後に学校法人となりました。社会福祉法人と学校法人の2本柱の組織になったのです。
創設者の三田谷啓氏は明治14年(1881年)9月1日、兵庫県有馬郡名塩(現西宮市名塩)に貧しい農家の長男として生まれましたが、志を得て苦学の末、医者となりました。
ドイツ留学の際、出会った「治療教育学」を日本に持ち帰り、昭和2年にその実践の場として 建てたのが三田谷治療教育院です。
経歴は
明治38年(1905)、大阪府立高等医学校を卒業後、上京して呉秀三から精神病理学、富士川遊から治療教育学を学び、医者として児童教育に終生捧げる基礎を固められました。
明治44年(1911)、ドイツに留学し、ゲッチンゲン大学で治療教育学、心理学を学び、ドクトルの称号を与えられ、またミュンヘン大学でクレペリン博士の指導を受け、精神薄弱児のメンタルテストをハール精神病院で行う。
大正3年(1914)、帰国後、「智力検査法」を発表する。わが国の精神薄弱児の鑑別にテストがつかわれたのは、おそらくこれが最初であろう。同年、治療教育院の建設地を東京に求めるが、なかなか見つからず、大阪へ移ることとなる。
大正10年(1921)、職を退き、大阪医科大学で血液の研究をし、大正12年(1923)、医学博士号を授与される。
同年、芦屋に阪神児童相談所を設立。皇室に児童保護問題についての啓発を行う。
大正14年(1925)に児童教養展覧会を開催し、皇后に母性教育の実施機関の設立を願い、今日の恩賜財団母子愛育会創立の基盤をつくる。
昭和2年(1927)、「三田谷治療教育院」を現在地(兵庫県芦屋市)に設立する。
ここでは、精神薄弱児、病・虚弱児などを収容したり、相談に応じたりしている。事業の性質上健康地として芦屋を最適地として選んだのです。
開院当日は児童教育展覧会を開催しました。参加者が連日満員の大盛況で日程を追加したほどでした。
昭和9年4月本院の事業を財団法人の組織に改め、昭和10年には御下賜金による恩賜財団母子愛育会が設立されました。
昭和10年(1935)、恩賜財団母子愛育会の理事となり、
昭和13年(1938)には学齢期の障害児のために院内に学校法人翠丘小学校を付設する。
昭和31年(1956)、「少年の村」構想を実現させるために行政機関に働きかけ、翌年、院内に「農園学寮」を設ける。
昭和36年(1961)、藍授褒章が授与される。
三田谷啓(ひらく)氏の業績として、治療教育学の実践、児童保護、母子保護の啓発と実践活動があげられます。彼は一個人として特殊教育に貢献しただけでなく、それを行政ベースにのせようとしたことにより多くの功績を残しています。
創設後、30年有余をすぎ、約2200人以上の心身障害児の社会復帰に力をつくした三田谷啓は、昭和37年(1962)5月12日、多くのこども達にみまもられながら80歳の生涯を閉じました。
創立90周年の歴史と共にその功績と日本のこの分野にあって、その意義は更に前進を求められているでしょう。
法人の名称は、創設者三田谷啓(ひらく)博士の名前に由ります。
芦屋市になくてはならない教育機関としてこの学院を紹介しました。
愛した言葉
「涙の二等分」
「よく用いられたる人生は永し」
【参考文献】
芦屋市史 昭和31年 本編
芦屋市史 昭和46年 本編
芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年
三田谷治療教育院
三田谷治療教育院史(前編)
日本文化科学社「人物でつづる障害者教育史」 津曲裕次、迫ゆかり 相川書房
「現代社会福祉人物史」 相澤譲治