あしや温故知新VOL 182 大東町 芦屋の地名シリーズ43
大東町は打出の一番東という意味の小字名から大東の町名になりました。
西宮市との境界に堀切川があります。西国街道まで船が入れるようにと広く切り開いたので掘り切川と言います。西宮市には堀切町が存在していますが、芦屋の小字名は堀江となっています。
町の東側は江尻川ですが、この川も西国街道まで川幅を広げています。
つまり、大東町の北部は西国街道で打出の中心地に接していたことが伺えます。
大東町南に辰新田がありますが、新田という耕地は300年以上も前のことですが、開拓に熱心だったと言えます。
小字名の堀江・大東・樋口・江尻。江の尻と言われる入り江の端ということになります。
芦屋市のHPに掲載されている「広報あしや」昭和56年2月5日(第423号)に、この江尻川の改修についての記事があります。
江尻川は「全長800メートル、川幅6~10メートルの極めて小規模な川」だったそうで、しばしば浸水の原因となっていたために、周辺の水害対策として暗渠化が進められました。
1961年(昭和36年)9月16日の第二室戸台風で堀切川が氾濫していますし、平成元年にも大東町一円が内水氾濫しています。
元々、地下水脈の影響で地盤改良するとき、苦労する地域でしたが、実際には過去、幾度となく災害の影響を受けていました。
この大東町・南宮町あたりの地域は、地面の高さが低いため、雨水が自然排水できないので、それぞれのポンプ場から直接、海に強制排水しています。
大東ポンプ場は昭和39年に建設され、現在では電動式ポンプ2台ディーゼル式ポンプ2台で排水能力が260立米/分が大東町全域をカバーし、浸水することはほぼ無くなりました。
昔このポンプ場には官舎があって、泊まり込みで災害に備えておりましたが、最新式はオートメーション化され、泊まり込む必要はありません。
お隣の南宮ポンプ場は昭和47年建設され、排水能力160立米/分ディーゼル式ポンプ2台で南宮町と浜町の一部をカバーしています。
大東町には南部地域の台所と言われた浜センターがあります。昭和47年に建設され、阪神淡路大震災により大打撃をうけ、現在のような上部階に住居、1階は商店街としてリニューアルされました。
多数の店舗がいつもたくさんのお客さんで賑わっていましたし、中学時代の同級生たちはこの店舗の子弟が多く、遊びにいくのが楽しかったものです。
商店街の南側に川崎製鉄の社宅もあって、子供たちが溢れる活気のあった地域です。
西宮市からもたくさんの方々が買い物に来られていました。
しかし、近年は生活様式の変化によって、このような商店街が過去の活気を取り戻すことなく、シャッターが閉まっています。
しかし、地域の大東町・南宮町が合体している東南会は今もしっかりと芦屋市のモデルスタイルとして元気に活動されています。
打出村の歴史は打出大東町、打出南宮町、打出浜町、打出西蔵町が戦後をけん引する役目を負っておりました。
打出天神社のだんじり巡行するとこの4町から参加されるお子さんたちが圧倒的に多く、稲荷山線あたりを練りまわすと一番拍手がある地域です。
打出村の歴史から西国街道以南のこの地域が最南端です。
そして、昭和昭和54年(1979年)芦屋浜シーサイドタウンが誕生します。当時「海に建つ超高層団地」が誕生するまでこの大東・南宮両町がその先導的な役目を果たしていたのです。
阪神高速道路の慰霊碑(阪神淡路大震災)も大東町にあります。
【参考文献】
芦屋市史 昭和31年 本編
芦屋市史 昭和46年 本編
芦屋の地名を探る 芦屋文化振興財団
芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年
芦屋の里 島 之夫 昭和4年