あしや温故知新VOL 181 南宮町 芦屋の地名シリーズ42
南宮町は昔は西国街道・浜街道に接する場所あたりに南宮八幡社があったとすることで名付けられたと言われています。境内敷地が109坪で、打出村字北羅35番地にあったとされていますので、現在の打出町あたりの南宮八幡社があったようです。
応神天皇を祀り、東の町の町宮でした。東の町と現在の打出駅筋から東で旧浜街道以南の地域のことです。明治41年4月25日に打出天神社へ合祀されています。
古新田・酉新田・内浜・外浜という小字名がありました。
打出村の農地として、郷蔵が南宮郵便局あたりにあったとする説もあります。
現在は暗梁になり、江尻川緑道となっておりますが、このあたりの田畑に必要な水を確保するために大切な川でした。
この江尻ですが、低い土地で入り江を意味しています。明治から大正にかけて湿地で葦が茂っており、水鳥たちの楽園でした。
地下水脈が豊富でレンコン畑も多く見られた南宮町ですが、湿地の埋め立てが進み現在は残っていません。
レンコン畑が樽井家・天野家の畑を私はよく覚えていますが、夏になるとハスの花がたくさん咲いていました。
母校の精道中学校は作家 村上木春樹さんが卒業された学校です。映画監督の大森一樹さんも精道中学校です。
昔から文武両道の学校ですが、演劇や文化活動には定評があった。宝塚歌劇団音楽学校へ
進学した同級生もいます。
精道中学校南には昭和の時代、川崎製鉄の芦屋寮や社宅が建設されました。昭和四十年代からは企業寮も目立っていますし、特に旧海岸地域は住友化学、神戸銀行、三菱銀行、日商、富士銀行、神鋼商事、東京海上火災、第一銀行、日綿実業、日本銀行、森下仁丹などがありました。
昭和三十年代まで海水浴場として賑わった浜辺の別荘地も、砂浜の埋め立てが進むなかで、企業社宅へと変容していきます。企業社宅は、山手にも点在しますが、山手に住友、浜手に川崎製鉄と大規模な企業社宅が形成されていきました。
このため市内小中学校では、社宅に入る転校生も多く迎えることになります。企業の子弟たちがクラスの半数を占めるようになると川崎製鉄の生活圏と独自に自治会が形成され、一大企業城下になっています。
そのため、川鉄自治会と地域の自治会の規模に偏りができ、川崎製鉄自治会とそれ以外の自治会となり、数はお隣の大東町と連携し、この地域には東南会(大東・南宮連合)と呼ばれるようになって現在もその活動形態が続いています。現在、川鉄社宅跡地はマンションや分譲住宅になっため自治会活動に川鉄自治会は存在しません。
川鉄社宅にいた友人が多数いますし、特に小・中学校運動会では、大東町や南宮町の選手層の厚さから町別対抗では常に、大東町か南宮町が優勝・準優勝で決まっていたように思います。
現在は、打出浜小学校が建設され校区が変わりましたが、私の時代は宮川小学校でした。
南宮町とはいえば、
日本キリスト教団 芦屋浜教会
村上春樹さんが卒業された精道中学校(新旧)
それと、美味しいおお店がある地域ですね。
打出小径プロジェクトも企画されています。
楽しみです。
【参考文献】
芦屋市史 昭和31年 本編
芦屋市史 昭和46年 本編
芦屋の地名を探る 芦屋文化振興財団
芦屋郷土誌 細川道草 昭和38年
芦屋の里 島 之夫 昭和4年