あしや温故知新VOL180  打出浜町(現浜町) 芦屋の地名シリーズ41

 

 明治の終わりから大正・昭和にかけて浜町の海岸通りは打出浜と呼ばれていました。

海水浴場はとても賑わっていました。


 浜町と西蔵町の境界に道路がありました。打出一番通りと呼ばれています。この石碑が打出小槌町に残っています。

 

 その打出一番通りの南端に芦屋市浜町15番付近に昭和6年に滞米生活を経験した施主の自宅と洋風貸し別荘を兼ねた「三宜荘(さんぎそう)」が作られた。




 約1,000坪の敷地に11煉の洋風小住宅だったが、地元の大工棟梁の建築建物でした。(あしや温故知新VOL86で紹介)欧米人はビーチハウスを好んでいたことで明らかなように多くの外国人が住んでいました。

 

 この浜町には「芦屋漁業協同組合」がありました。海側には桟橋と漁船、浜で釜揚げを作るための工場などがありました。


 イワシや地引き網も盛んにおこなわれていましたし、夏になるとイカ釣り船が出ていました。漁業の本拠地がこの浜町一帯でした。


 その守り神が「芦屋浜戎社」です。芦屋市浜町の臨港線北側にある小さな社です。

私の祖父、長谷福蔵が建立した神社です。皇紀2600年。昭和15年です。




 曽祖父の長谷角之助がそれ以前に建立しましたが、芦屋浜の浜戎神社は1934年(昭和9年)921日の室戸台風によって御神体ごと高潮で流されました。


 祖父福蔵は芦屋漁業組合の初代組合長でした。

 海の守り神として、長く地域の方々にお参りいただいたのです。

 9月中旬に(911日から15日)秋の大祭を盛大にお祝いしていましたが、最近では福丸水産株式会社の人たちで、海の安全を祈願しています。つまり、この直ぐ南が海だったという芦屋の歴史でもあります。小さなお社だけど、海や地域の守り神なのです。

家内安全、商売繁昌、大漁祈願!

高潮対策の防潮鉄扉が残されています。


 芦屋市浜町の臨港線北側の旧防潮堤線沿いにそれがあります。

何故出来たかというお話ですが、第2室戸台風。昭和36916日、室戸岬に上陸し、大阪湾岸に大きな被害を出した台風です。


  南側に漁業用桟橋とその横には浜の釜揚げ工場がありましたが、見事に破壊され、高潮がこの辺り一帯に大きな被害を与えてしまいました。


 そこで、普段は閉まっていませんが、台風や高潮になりそうな時は閉める開閉式鉄扉が設置されていました。


 更に10年ほど古くは ジェーン台風。昭和25年、1950年の時は漁船が沿岸部に流された経験から、この扉の北側に漁船を陸揚げしておく場所も確保されたと聞いております。


  昭和4519708月に発生した巨大な台風10号の時、漁船を陸揚げして、鉄扉を閉めたのを最後にそれ以来は鉄扉を閉めるところを見た事はなかったのですが、長くこの扉は地域を守ってくれました。

 

芦屋の歴史を語り継ぐ場所といえると思います。


 埋め立て地の芦屋シーサイドタウンが完成した時、この堤防は撤去する予定でしたが、臨港線の騒音対策と芦屋の歴史として堤防を残して欲しいと言う市民の声に応える形で、この開閉式防潮鉄扉も残される事になりました。

 

 浜町には小字名の西ノ口に宮川小学校、宮川幼稚園があります。


他にも一本松と向見、前浜などの小字名がありました。

 

 昭和43年までは打出浜町と呼ばれていました。






【参考文献】

芦屋市史 昭和31年 本編

芦屋市史 昭和46年 本編

芦屋の地名を探る 芦屋文化振興財団

芦屋郷土誌 細川道草 昭和38

芦屋の里 島 之夫 昭和4


「個人的なお話」


「長谷角之助」は実家の遺品整理中、大正元年の掛け軸を発見しました。


【解読筆写】

 

天徳を戴て確かなり

 

 景色能道ハ急きこそすれ


 すなほなる正しき道そ

  

 いそかす人のゆく道

  

 此度の往還道とゆふのハな


 石よりかたい末代のみち


          時于大正元年冬日応需録

          長谷角之助翁歌  子昴


と書かれており、専門店で修理をしていただくことになりましたが、金粉を使った珍しいものらしく、久しぶりにこんな掛け軸を見ました。

曽祖父さんの功績を残されていますよ。見事な絵の作家も調べていただけるとのことです。

芦屋村と本庄村の道の話しでした。


本庄村史を調べてみることになりました。


 曽祖父は漁業者ではなく、貸船業、港湾荷役業、魚の中買問屋、私塾をやっていたことはわかっていましまが、、、。

ファミリーヒストリー見たいで、ちょっとワクワクしてきました。


3ケ月以上、修理にかかるのは楽しみです。