あしや温故知新VOL179 西蔵町 芦屋の地名シリーズ40

 

 宮川下流西側を呉川町、東側が西蔵町と呼びます。昔の小字名の北から西川原・中川原・下川原・芳竹目・大浜を合わせて西蔵町としています。


 西国街道沿いの西川原(現国道43号線)沿いには、西川原を中心に大きな集落がありました。その名前が西蔵だったとされています。


 西蔵の名前は江戸時代に南宮郵便局あたりに郷蔵(年貢を保管したり、不作に備えて米を蓄えておく村の倉庫)があったという説もあるそうです。


 この郷蔵の南に打出の入り江があったようで、年貢を運ぶのに便利がよかったとされていますが、実在する記録はありません。

 小字名の芳竹目は芳は葦のある湿地のある場所とされています。

この地は打出西蔵町として昭和43年(1968年)までは呼ばれていました。

 宮塚町の金刀比羅神社は西蔵町の町宮でした。

 

さて、昭和20年4月1日、元神戸高等商船学校の全施設を継承し、高等海員養成所が置かれましたが、同年8月の空襲により焼失しました。

昭和30年3月26日に芦屋市西蔵町に海技専門学院として移転をし、翌年‪6月16日‬に校舎が完成しています。36年には校名を海技大学校に校名変更をしています。

 この校舎敷地内には総重量5.800kg、直径422cm、製造年は1952年5月7日のスクリューがあります。

 記録では「1952年(昭和27年)6月頃、改装された」とありますから、南極観測船時代ではなく、灯台補給船時代のものだと思われます。船名をひらがな表記にした「そうや」。南極観測船「そうや」は1956年(昭和31年)に改装された船舶です。

 実は日本海軍で一番長く活躍した船なのです。竣工 1938年6月10日 商船から特務輸送艦として海軍で活躍した「宗谷」その後に、灯台補給艦~南極観測船として「タロウとジロウ」も乗船した。退役 1978年10月2日。

別名「奇跡の船」「不可能を可能にする船」「帝国海軍最後の生き残り」「灯台の白姫」

昭和の歴史ですね。それが西蔵町にあります。

 

西蔵町には、昔ながらの里道が昭和30年代から40年代にかけて残っていました。

田畑もあって、どこか長閑な風景がつながっています。遠浅の打出海水浴場も目の前にあるのですから、とても住みやすい町です。

宮川線沿いで、今は桜並木ですが、私が小学校・中学校時代は「柳」が街路樹でした。

夏の夜はこの柳の下に幽霊がいるなどと近所の悪ガキの噂になり、探検隊を繰り出した遊びも流行りました。

宮川にかかる水道橋が昭和35年に完成した「潮風水管橋」が正式名称ですが、現在は高潮対策で護岸が嵩上げされ、見ることができません。

 

  独立水管橋という種類です。上を歩くためではなく、メンテナンス用。 小学校の低学年で、人が一人通るのが精一杯の幅約80cmほどの人道橋ではなく、水道管のための橋です。この橋を通るのが「名誉」でもあり、少年少女たちの憧れになるほどのものです。

 通称名が「根性橋」だった。

 呉川町から西蔵町へ渡る根性橋は転落すると6mは落下し、宮川の浅い水深では大怪我は免れない。

危険であったため、近所のオヤジ達に通過するのを発見されると「怒鳴られるどころか・・・。殴られる」西蔵町・呉川町の子供たちと言えば、やはりこの橋を渡ったかどうかだ。

 

【参考文献】

芦屋市史 昭和31年 本編

芦屋市史 昭和46年 本編

芦屋の地名を探る 芦屋文化振興財団

芦屋郷土誌 細川道草

芦屋の里 島 之夫


写真は浜から見た西蔵町です。

真ん中の建物な今は西蔵子ども園です。

写真下のすごい園です。


海技大学付近、当時は海技専門学校と呼ばれていました。