✴️あしや温故知新 VOL86 三宜荘と芦屋文化村

✴️review懐かしのバックナンバー44


 

  芦屋川河口の西側 現在の神戸市東灘区深江南町に「文化村」と呼ばれる街があった。


  現在は「深江文化村」と呼ばれて残っている3棟が保存されている。芦屋市洋館建築や郷土文化研究家の小野高裕先生(私の1学年先輩)の著書に書かれています。

 

  この文化村はアメリカ人建築家ヴォ―リズの弟子であった吉村清太郎(18671958)が地元の医師から購入した2,500坪の敷地にアメリカン風ハウジング・プランで設計した。

 大正13年から建築が始まり中央に住民共有のローンヤードを作り、周辺に意匠が異なる13の洋風建築を建てた。

 一部の設計者は不明ですが、アメリカ人やロシア人の設計者もいたようだ。

 

 また、宮川の東側芦屋市浜町15番付近に昭和6年に滞米生活を経験した施主の自宅と洋風貸し別荘を兼ねた「三宜荘(さんぎそう)」が作られた。約1,000坪の敷地に11煉の洋風小住宅だったが、地元の大工棟梁の建築建物でした。

 

 海岸線に作られたこれらの2つの文化村は、欧米人はビーチハウスを好んでいたことで明らかなように多くの外国人が住んでいた。

 

 私が小学生の時にドイツ人のカール君が住んでいて、その横にはアメリカ人のジェフ君兄弟がいた。彼らとよく遊んでいたし、家にあったボクシングブローブでふざけていたら、運悪くジェフ兄弟の頭にヒットしてしまった。

 大袈裟に倒れるジェフ弟に母親が「乱暴な日本の子供・・・?」と思われたのだろう。

私に「空手キッド」と呼ぶようになり、遊びに行くと決まってそのグローブは手の届かない棚に移動されていた。


 イーデス・ハンソンさんに似ているこのお母さんですが、どうも英国人だったようです。

 このお母さんの作る飲み物が「マーマレードティー」だと知ったのは私が大人になってからだった。


 さて、呉川町で生まれた高瀬湊さん(1928年生まれ)の著書で「遊べ!あそべ!」でこの三宜荘の記述があります。


「外人たち、それも白人家族の居留地だけに、広々としたコンクリートの通路を十字に巡らせ、手入れの行き届いた芝生に囲まれて建てられたバンガロー風~別荘地で見かけるベランダ付のしゃれた白い洋館、それに色とりどりの季節の花が年中植わった庭園という取り合わせは、異国情緒たっぷり、あたりの日本人の住まいとはだんぜんに圧倒して打出の界隈では別世界の存在だった・・」


 ここに住む外国人の子供たちにいたずらをしたり、遊んだ様子が楽しく書かれています。

 

 確かに、この三宜荘は別格だった。

 北に純日本建築の大きな関西電力打出寮と道を隔てて1つ南に時代の先端をいっていた洋館が存在していました。

 

三宜荘や関電打出寮は現存していません。

残していたら、きっと後世に残す貴重な資産になっていたと思う。


写真は西蔵町の海技大学。その東側に見えているのが、浜町の三宜荘です。