あしや温故知新VOL177 打出村と芦屋村境界その2
大溝川は現在の中央線を北上するとJRのホームの下を通る、古いトンネル部分の歩道部分に、暗渠がありましたが、それが大溝川です。
その先は芦屋川へ向かっていたと言われています。
芦屋川の開森橋付近から水を取り入れた井手(田の用水として、水の流れをせき止めてためてある所)船戸町・松ノ内には昔小字名の井の尻と言われる場所がありました。芦屋川の伏流水の末端で、古い地図には池があったとされています。
おこらく、これに大溝川がつながっていたと考えられています。
芦屋史誌・細川道草著によると芦屋村と打出村の境界は山地では共有山が複雑であるが、平地は小字名より間谷(東山町)-真谷(東山町)この谷にはため池が3つあったー横山(大原町)-針ノ木(大原町)-天八(大原町)-持湯(上宮川町)-大溝川―内田(宮塚町)-折の上(宮塚町)-川西(宮川町)-御所谷(呉川町)-西呉川(呉川町)-浜呉川(呉川町)-念仏川口となっています。
旧打出村は明治31年の地図によると小字が124ありました。
昭和15年11月の市制施行の旧打出村は呉川・打出浜・西蔵・南宮・大東・若宮・宮川・宮塚・小槌・春日・楠・上宮川・大原・親王塚・翠ケ丘・岩園・朝日ケ丘・六麓荘・東山の19町が決定しています。
もうひとつの旧芦屋村と旧三条村の境界はどうかというと、
小字名は次の通りです。
高座谷―赤石場(山芦屋)-北溝(山芦屋)-冠り(山芦屋)-西ノ坊(西山町)-寺田(西芦屋)-傍示(前田)-以上のように平地部は山手中学校あたりから傍示川本支流によったものです。省線以南は深江村でした。
明治17年三条村誌では、東は芦屋村の山岳および耕地に接し、西は森村に界し北は九ケ村(三条・津知・深江・中野・小路・北畑・田辺・青木)共有山を限り、南は津知に境す(小字24個
傍示川の名前は境界を意味するもので昔から芦屋村と本庄の境界の川でした。
このように、打出が巨大な面積をもつ村であったことや行政レベルでは他の3村の遥かに凌ぐ地域でした。
もし、単純に面積や行政管轄の流れから、芦屋市ではなく打出市となっていたとしても不思議ではありませんでした。
【参考文献】
芦屋市史 昭和46年版
芦屋市史 昭和31年版 本編
芦屋郷土誌 細川道草
精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会
芦屋の地名を探る 文化振興財団
芦屋の里 島 之夫昭和4年
あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団