あしや温故知新VOL176 打出村と芦屋村境界 その1
芦屋の地域は交通の要所であったため、幾度か大きな戦が繰り広げられていました。
1351年の打出浜の戦いや1511年鷲尾城を包囲したことから始まった芦屋河原の戦いなど激戦でこの地方の人々は大きな被害を受けたに違いありません。
そのような中で農民たちの結束は強まり、生活の場として郷村が確立されたと言われています。
戦国時代の末期、芦屋市域は東半分に打出、西半分に芦屋、その西部山沿いに三条、その南の内陸部を津知といった4村がほぼ出来上がっていました。
打出・芦屋庄と称し、一方、津知、三条は西方の森・中野・小路・北畑・田辺・深江・青木と共に本庄9ケ村と称して行動を共にすることが多く、山論や水論では結束して利益を守ろうと全力で戦った記録が残っています。
さて、近代になって、幕府領が打出・芦屋で尼崎藩領が三条・津知と二分されていました。
慶応4年(1868年)に打出・芦屋が兵庫鎮台(兵庫県)に管下に入り、三条・津知は明治2年(1869年)に版籍奉還により尼崎藩県となり、同年4年に廃藩置県の断行により尼崎県の管下になり、同年11月尼崎県は兵庫県に編入され、4ケ村が同じ行政管下になったのです。
明治13年7月から実施された連合町村戸長制によって、芦屋・三条・津知の3ケ村は深江村に戸長役場を置き、打出は単独で戸長を配していました。
明治22年(1889年)4月、町村制施行に伴って芦屋・打出・三条・津知の4ケ村が合併し、精道村と命名された。精道小学校の校名は元尼崎藩の儒者で、維新後西宮に家塾を開いていた豊川政苗氏が「養精修道」から「精道」と名付けたとされています。(打出史話)
では、ここで打出村と芦屋村の境界がどこにあったのかという素朴な疑問が残ります。
JR南側は呉川中央線が完成するまでは、大溝川が存在しておりました。ここが打出と芦屋村の境界になっていると言われる方が多いのですが、実は県立芦屋高校西側から真っすぐ南へ念仏川という川が存在していました。
東側は呉川町で西側は竹園町と伊勢町の境を流れていた小川です。現在は暗梁になっていますが、江戸時代は新田開発後には大切な用水路の役目を果たしていました。
念仏川という名前は念仏や太鼓念仏と称して鉦や太鼓を打つ練習をして、毎年お盆の時期には講中講外の所有者が集まって、念仏やお経の声に合わせて鉦や太鼓を打ち鳴らして仏様を供養したもので古典的な郷土色豊かな宗教的行事でした。その名を取って、念仏川としたのです。
【参考文献】
芦屋市史 昭和46年版
芦屋市史 昭和31年版 本編
芦屋郷土誌 細川道草
精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会
芦屋の地名を探る 文化振興財団
芦屋の里 島 之夫昭和4年
あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団