しや温故知新VOL 171 芦屋町芦屋の地名シリーズ36

 

 

 浜芦屋町は文字通り、浜に近いというものですが、昔は小字名の辰新田と呼ばれていました。


 芦屋の里(昭和4713日発行 島之夫著)によります。

江戸時代に田地として開発されたものです。辰新田は松浜町もこのように呼ばれていました。

 

 大正時代になって、宅地造成開発が進められた場所です。

芦屋公園(芦屋川遊園地)が出来たのもこの頃でした。


この公園は文学でも多数紹介されている場所になりました。この公園には芦屋川の改修工事に尽力した精道村長をたたえる記念碑があります。


南に位置する場所には怪物の「鵺塚」(ぬえつか)があります。(あしや温故知新VOL15に記載)

「摂陽群談(せつようぐんだん)」とは、江戸時代に編纂された摂津国の地誌です。 17巻から成ります。

岡田溪志(おかだけいし)が伝承や古文献を参照に元禄11年(1698年)から編纂を開始、同14年(1701年)完成したと言われています。

 江戸時代に刊行された摂津地誌としては記述が最も詳しく、この塚の部にこのような記載があります。


「菟原郡芦屋・住吉両川河の間にあり。俗伝に云、近衛院御宇仁平3年、源三位頼政公の矢に射落とされし化鳥、うつぼ舟に入て西海に流す。此浦に流れ寄りて留まること暫しあり。

  浦人之を取り、是に埋み、鵺塚と成し傍に就て祀祭の所伝たり。

  亦東生り郡滓上江村に鵺塚あり。芦屋浦に鵺を取りて之を埋む、其の柯(カ、枝・柄)を捨て海に流す、潮逆上して滓上江に寄り、之を拾い以て鵺塚と成すという一説あり」

これが鵺塚橋から鵺塚の伝説です。

 

あしや温故知新VOL87 88 貴志康一の伝説を紹介しましたが、実は自宅は浜芦屋町です。

   阪神電車を下り、真っ直ぐに南の方に歩む芦屋の暗い松原も唯一一人通る人もなかった。弱い西風が周囲の松をゆるがし、時々遠くで犬の吠声が長く響いていて聞くこへてゐた。(略)

 静かな夜だ、又してもバッハのアリアが頭に浮かんで来る。あの明らかな音、あの床しい音楽、あの月、此の自然、此の人生、あァボクは幸福だ。彼はたまりかねた様子であたりの静寂を破って細高いやや震えた声で、、、、。お父さんと叫んだ。

 貴志康一の自叙伝的な小説がありますが、これが阪神芦屋駅から自宅の浜芦屋町での風景が描かれていることは明らかです。天才音楽家はこのような小説や絵画を残しています。

この町は伝説と風光明媚な景色が今も残っている地域なのです。 


先に紹介した精道村長をたたえる記念碑の北には、あしや温故知新VOL12 松浜公園で紹介した和洋折衷の旧洋館で経営されていた喫茶店「仏蘭西」(フランスかフランセ)へ恋を語る男女が仲良く入っていく姿が懐かしい。

  私はこの芦屋公園(松浜公園)が今でも市民が好きな場所として上位にあがっていることがゆわば誇りでもあります。

 

浜芦屋町は素敵な町として文化人も誕生させている場所なのです。

 

【参考文献】

芦屋市史 昭和46年 本編

芦屋市史 昭和31年 本編

芦屋の地名を探る 文化振興財団

芦屋郷土誌 細川道草昭和38

芦屋の里 島 之夫昭和4