あしや温故知新VOL169 ろうけつ染とクリスマス
母が(今月5月2日永眠)若い時にやっていた趣味が洋裁、日本人形つくり、らうけつ染がありました。
私の洋服は母の手作り、家には人形の着物、風呂場は時として染色で藍一色でした。
ろうけつ染め(蝋結染、蝋纈染、臈纈染などとも記される)というものです。
模様部分を蝋で防染し染色する伝統的な染色法で中国では新疆ウイグル自治区の精絶国遺跡の東漢墓から蝋染の綿布が発見されていることから、2世紀 - 3世紀からろうけつ染めの技法があったと見られる。 日本では正倉院宝物に見られるなど、天平時代から見られる染色技法です。
京都の京友禅でも「蝋纈友禅」も存在していますね。
その手法は様々なのですが、好みの図案を表現することができ、手書きの良さが活かされるために、手芸染法として衣料品や室内装飾品など広く応用されています。
芦屋市では、伊勢町の日本画家湊弘夫氏が戦後、猿丸市長の時に始めたもので、芦屋バチックという梅の絵を得意とし、市の後援によって更に発展していきました。
湊弘夫氏が亡くなってからは夫人が後を受け継ぎ、ネクタイ・ハンドバッグ・着物・パラソル・壁掛け・帯締め・ぞおりなどあらゆる優秀な製品をつくり、芦屋夫人もこれに従事する人が増えてきました。
大内・大野・木村さんなどは特に熱心であった。東京・大阪・神戸などの百貨店に展示即売会も評判がよく、鹿鳴館風俗壹番館のれんをオーダーされ、1947年に完成したとされています。(故・湊弘夫画)
母が何故、ろうけつ染に凝ったのかは分かりせんが、母が作った作品が売れたからかも知れません。
当時、私の家は呉川町にありました。
実はここに国際色の工場がありました。
実際、この工場があった記憶は微かにしか残っていませんでしたが、芦屋市の中にはいろんな製造業をやっておられた方がいました。
芦屋市史の中では埋もれていますが、いくつか蘇らせてみたいと思います。
私が生まれ育った町には、こんな工場がありました。
特に夏場に忙しく、冬には暇になると言っておられたようです。
クリスマス用品の製造をやっておられました。
【呉川町の普門モール】
昭和22年より、呉川町14で普門モールという会社がありました。クリスマス用品を主流に輸出専門です。資料によると米国80% 他、欧州諸国、アフリカ、南米まで輸出されていました。
原料は国内産で、毎年8月までに神戸港から積み出すというものです。
子供のころ、このモール工場で商品にならないものを貰ってクリスマスを盛り上げたという呉川町付近の家庭が意外とたくさんのツリーを飾っていたのが、この普門モールさんのおかげだったようです。
また、ここで売れ残る装飾品を安く手に入れては、翌年のクリスマスツリーを飾る笑顔の母が懐かしいのです。
売っていなければ、気にいらなければ、
自分で作る!
母が実践していた!人生訓ですね。
【参考文献】
芦屋市史 昭和46年 本編
芦屋市史 昭和31年 本編
芦屋の地名を探る 文化振興財団
芦屋郷土誌 細川道草昭和38年
芦屋の里 島 之夫昭和4年
【お詫び】
先週金曜日、毎週投稿するお約束でしたが、母を亡くてしまいお休みさせていただきました。
お許し下さい。