あしや温故知新VOL167 春日町 芦屋の地名シリーズ33
「打出名所はかずあれど、わけて名高い小金塚」と歌われた金津山古墳がある春日町は
古敷、寺開地(てらんかいち)小松原、馬場などの小字からなっていました。
寺開地にあったと言われる春日神社がその町名になったと考えられます。
打出天神社もこの春日町にあります。
昭和48年(1973年)より春日町土地区画整理事業によって、鳴尾御影線が延長され、旧西国街道が確認できるのは、打出小槌町、宮塚町とこの春日町の一部だけとなりました。
昭和54年(1979年)芦屋の生活文化史では、この区画整理事業の以前の街並みを調査し、大正期から昭和初期が詳しく掲載されています。そこには、この西国街道にあった石造遺品、お地蔵さんなどの内容と現存している場所が詳しく書いてあります。
打出春日町七に芦屋唯一の陶芸「打出焼」の窯がありました。
明治43年、打出をこよなく愛し、不就学児童を集めて自宅で夜学校を開き、貧困者には毎月米を与えたので「打出の殿様」と呼ばれたと伝えられている斎藤幾太氏(あしや温故知新VOL56斎藤幾太で紹介)が打出焼の窯を作りました。打出丘稜に登窯の技法を使って阪口庄蔵氏(初代砂山)が創業、続て二代目阪口淳氏が製造しましたが、昭和40年頃から製造が中止され昭和53年6月逝去され打出焼は閉窯となってしまった。
打出春日町73の西田製櫛所は打出村の庄屋、西田治郎左衛門の長男、西田治一郎氏が明治35年に創業した特殊産業でした。
原料は豪州産の牛の角を使ったものです。西田氏は創業以来30年の歳月をかけ改善と改良を加えました。その結果、海外輸出を行い、その日本製の優秀な技術は高く評価されました。
当主の西田虎太朗氏に本業は歯科医師であったが、昭和15年父治一郎氏のあとを継ぎ,
苦心の結果、ハードラバー(硬質ゴム)を原料として櫛の製造に成功し、良質と言われるドイツ製品を上回っていると人気があった。
打出天神社(あしや温故知新VOL34 打出天神社で紹介)
打出天神社は太平洋戦争(大東亜戦争)で、本殿をはじめその多くを焼失したため神社の古記録は失われています。
それがために神社の創建は明らかではありませんが、古来、産土神を祀っていたものを、天神信仰が盛んになり、天神さま(菅原道真公)を勧請したのではないかとされています。
天暦元年(947)に北野天満宮に道真公が祀られてほど遠くない時期に勧請されたとされています。室町時代には北野社領(天満宮)の葦屋荘に記録がありますから、関係があったと推測されています。
打出村の旧西国街道の賑わいが長く残っているのがこの春日町です。
さて、最近は願が叶う「打出の小槌」(登録商標)の石絵馬が境内に新しい名所として建立されました。令和元年のことでした。
この登録商標登録と石絵馬設置を推進されたのが、打出天神社総代会の細谷誠氏です。