あしや温故知新VOL 164  宮塚町芦屋の地名シリーズ30

 

「打出史話」1940年発刊では、宮川の西、西国街道の南、字宮塚十四番地の中に、宮塚という円墳(塚)がありました。


 相当大規模な古式古墳でした。その上に一本のセンダンの木がありましたが、大正年間耕地整理のために取り除かれ、今は町名にだけ名前が残っています。

 

 宮塚町の昔は西国街道に面した打出村の農地でした。大正12年(1923年)交通道路が整えられ、新しい住宅地になりました。この地域は打出宮塚町と呼ばれていました。

 

 昭和27年全国でも珍しい石作りの芦屋市営住宅がこの宮塚町にできたのは昭和27年で設計者は不明。


 壁が石造「凝灰岩」でスラブがRC2階建ての組積造です。戦前・戦後を通して集合住宅の構造としては極めて異例の建物になります。面倒で費用もかかる石造をあえて採用している不思議な建物なのです。


 現在、この旧宮塚町住宅を「女性活躍及び情報発信の場として活用する」として素敵なショップが出来ていますし、入口北には市民農園が出来ています。この建物は国登録有形文化財に登録されています。

 

 この宮塚町には宮塚公園という芦屋市では比較的大きな公園があります。


 完全にリニューアルしてイベント広場としての活用が期待されている公園なのです。桜のシーズンになると花見で賑わっています。

 

 町内、北側の国道2号線には地蔵公園があって、大きなお地蔵さまがどっしりとたたず

んでいます。

 子供たちの交通安全を祈願されたと聞いていますが、台座由緒書きには、「当芦屋市内に於ける交通事故災害の犠牲になられた多数の精霊の冥福と衆生の交通安全の守護永劫の安泰を祈り茲(ここ)に交通安全地蔵尊を建立し奉る。


 維時昭和三十三年四月吉祥日奉建功徳主 芦屋市民有志」

 当時から交通事故が多かった場所だったのです。

 

 さて、宮塚町は打出村なのか。芦屋村なのか?と議論になることがあります。

 打出川(現宮川)と呼ばれていたころは大溝川の東側が打出村と西側芦屋村というのであれば現中央線で別れる公算が強い。

つまり宮塚町は半分が打出、半分が芦屋ということになるのです。


 しかし、古代古墳時代は宮塚と鞍塚の関係から言っても打出村だったとされました。


歴史的には打出村だったと言っても問題ありません。