あしや温故知新VOL163 猿丸太夫
猿丸大夫をご存じでしょうか?
「奥山に もみじ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき」
古今和歌集巻第四 秋歌上215
小倉百人一首 第5番は「紅葉ふみわけ」となるのですが、かるた遊びの普及とともに、
猿丸太夫の名を知らない人はいないでしょう。
また、芦屋市では「猿丸太夫」の古跡があります。
奥池というため池を造成し江戸末期から明治にかけて芦屋市の基礎を作った「猿丸又左ェ門安時」は自身が猿丸太夫より44世の末裔と言っています。
芦屋川東には墓所と伝えられている場所があり、「摂津名所図会」(天保7年1836年)にもそれが記されています。
東芦屋町にある芦屋神社には猿宮と呼ばれたり、境内に「猿丸太夫之墓」と言われる宝塔が祀られています。しかし、この宝塔は南北朝時代(1336年から1391年のものであり、古今和歌集から推測すると、万葉集から古今集の間に挟まれた平安前期の人とされていますから年代が500年以上も以前のことになります。
実は猿丸太夫が実在したのかどうか?も含め、怪しいのです。
在原業平の伝説とは異なる存在なのです。この猿丸大夫には多くの学者が研究をされています。
猿丸姓を名乗る人は各地におり、猿丸太夫の墓も芦屋の他、加賀、山城、越中、越後、信濃、羽前、岩代などに存在しています。鴨長明の「方丈記」に「日野山閉居、田上河を渡りて、猿丸太夫が墓を訪ねて・・・」とあります。
これも貴重な歴史的資料とすると
柳田国男の研究によると天正17年(1589年)の豊臣秀吉の刀狩りの時代、芦屋川用水日数定めの証文に「芦屋村年寄中猿丸太夫」と書判していることから見ても、芦屋の実力者の猿丸家をリスペクトしていた。
また、古くから猿丸太夫の末裔として祭祀を行い猿丸太夫の古跡が多い芦屋市です。
「奥山でもみじした落葉を踏み分けて歩いているとどこかから鹿の声が聞こえてくる。そんな時こそ、秋の悲しさがひとしお身にしみるものだ」この解釈は菅原道真作と言われています。
一方で
「奥山で散りし紅葉をふみわけつつ妻を求めて鳴く鹿の悲しい声を聞くと、秋のさびしさがひときわしみじみと感じられる」小倉百人一首に解釈です。
どちらが、猿丸太夫の歌の解釈が近いのかは判断が分かれるのですが、私は恋の作品の解釈の方が好きですね。