あしや温故知新VOL161 大桝町 芦屋の地名シリーズ28

 

 町名に付けられた大桝の小字名は芦屋村の時代、田畑に必要な水を引くための灌漑用水の池があり、舛は田んぼに水を引く樋に設けられた四角い水を一旦貯める箱のことです。


 大桝町は公光町と隣接しており、大正時代は田畑と緑地が多い地域でした。大正末期には住宅地造成が進み、芦屋で最も古い商店街ができました。


「本通り商店街」は芦屋市内で最も歴史が古く、阪神電鉄の開業当時、芦屋駅の設置と同時に明治38年、(1905年)開設されました。大正12年~13年頃には、「本通り商店街」と呼ばれるようになります。

 

 さて、この町にはランドマークの建物があります。旧電報電話局(今は芦屋モノリス)です。


 旧逓信省の電報電話局として逓信省技師の上浪朗が設計し、1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート造で竣工しました。

太平洋戦争時の1944年(昭和19年)頃には、防空迷彩のために茶色の外壁がコールタールで黒色に塗装され、次いで1968年(昭和43年)にはリシン吹付塗装で白色の外観となったりしています。



 

 建物は旧帝国ホテルの設計で知られる米国の建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受けて、当時流行したレトロモダンなネオ・ルネッサンス様式です。外壁は、レンガに似たスクラッチ(引っ掻き傷)・タイルを使用しています。所々に獅子の頭部や紋章などのレリーフ装飾が施され、アーチ状の五本の柱が重厚な外観を演出しています。2017年(平成29年)には国の登録有形文化財に登録されています。

 

 大桝町に赤レンガ造りのモダンな劇場「寿劇場」(収容人員200人)が大正10年開業、映画・芝居などを上演して、多数のお客様で 連日の満員御礼。とても賑わいましたが昭和25年火災で焼失しました。



 1920年(大正9年)、帝国キネマが設立後に「大阪支社」とともに時代劇スタジオを持つ東大阪市の「小阪撮影所」と、1923年(大正12年)、兵庫県の現在の芦屋市内に「帝国キネマ芦屋撮影所」を建設し、開所したという記録があります。場所はおそらく、開森橋の西側ではないかとされています。この寿劇場と芦屋撮影所の建設で当時の芦屋市の演劇・文化活動に大きく影響したのではないかと考えられます。時代が阪神間モダニズムで町づくりがされていた時代、芦屋市は芸術文化をリードしていた地域でした。

 

 私の子供の頃、電話加入はここで受付けされ、たくさんの職員さんが仕事をしていました。私の友達のお父さんもいました。電話局として使われなくなった頃は、夏休みなどは子供の色んな教室をやっていました。

 


 【参考文献】

芦屋市史 昭和46年版

芦屋市史 昭和31年版 本編

精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会

芦屋の地名を探る 文化振興財団

芦屋の里 島 之夫昭和4

あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団

『芦屋郷土誌』細川道草、芦屋史談会1963