✴️あしや温故知新VOI.13「打出の殿様と呼ばれた男」✴️review 懐かしのバックナンバー25


明治時代の話です。


  精道村は「石材と粘土の産地ということも好都合だ。」


  齋藤幾太は「打出丘陵の良質の粘土層に着目、京都から陶工を招いて、番頭の坂口庄蔵(屋号・砂山)に作陶させた」と記録にあります。

   それ以外の記録としては、兵庫県芦屋市打出町に明治39年に琴浦焼の創始者和田九十朗正隆が斉藤幾太に協力し、創業と記録されている文献も存在しています。


   時は明治の終わり近く開窯された「打出焼」は、明治39年から明治43年、斉藤幾太から初代阪口砂山(庄蔵)、二代目砂山(淳)までの間、旧打出村(現在、兵庫県芦屋市春日町)で作陶された京焼であることには間違いありません。

 

   有名な話としては、西宮 海清寺の南天棒の生前葬の棺桶は当時の新聞をにぎわせたと言います。


   その後、歌人・作家・絵師を始め各分野の文化人が訪れ、絵付けをしたとされています。

    打出焼の素焼きに与謝野夫妻が歌を記すという企画が催され、与謝野鉄幹・晶子夫妻の書いたお皿が来会者への贈り物となりました。

  与謝野 寛(よさの ひろし)鉄幹はこの芦屋訪問の1年9ヶ月後に亡くなっています。(1935年(昭和10年)326日没)


    戦後の打出焼は昭和24年、芦屋市の広報誌「あしや」に「海を渡る打出焼」と題した記事が掲載されています。




    これは、米国人観光客へ打出焼の紹介と宣伝を依頼された、米国船会社アメリカン・プレジデント・ラインズ(APL)神戸支社のキリオン氏が、打出焼を大変珍重したと言われ、「将来、打出焼がアメリカ、ヨーロッパに船出する日が近い」と期待を込めて書いています。


    当時、APLは、米国西海岸と日本を結ぶ太平洋航路に定期貨客船を運航していました。  昭和28年、皇太子殿下(今上陛下)が、外遊の際、APLのプレジデント・ウイルソン号で渡米されました。


   芦屋市制施行10周年の引出物として

昭和25年、芦屋市の市政施行10周年記念式典で、市章入りの打出焼が引出物として参加者に配られ、翌年より高野山の寺院から記念品の注文が入っています。

    昭和28年、結婚式の引出物に打出焼の茶碗を注文した市民が多数現れたそうです。


   昭和48年、春日町が土地区画整理事業の対象になり、打出焼の窯は取り壊されています。



    楠町で紹介した大楠公戦跡碑はこの地に広大なお屋敷をお持ちだった、実業界にゆかりの深い斎藤幾太氏(1859-1938)が建てられたものです。

 土地(130坪)は斎藤幾太氏が提供し、建立費7600円の内、募金額は3000円集まり、残りの4600円は幾太自身が拠出したと言われています。