あしや温故知新VOL155 津知町芦屋の地名シリーズ23
国道2号線の南側で西側は神戸市深江の市境があります。
江戸時代には既に津知村とか辻村と書かれた古くからの地名でした。
また、津知の名前は辻のことで交通上の要地や道が交差する場所という意味になります。
有名な西国街道以前の古代から官道(現国道)であったとされています。三陽道も津知町を通っていたようです。
一方、津知は槌という説もあり、日吉神社(あしや温故知新VOL 参照)に残っている石祠に小槌の刻印があることがこの由来だというものです。
6000年前は津知町の南が海であり海岸線近くに「津知遺跡」があり、古墳時代の水田址や奈良時代から江戸時代にかけての器や柱跡も見つかっています。
阪神淡路大震災後、区画整理が行われましたが、この事業の調査の結果、六条遺跡・津知遺跡が発見されています。
明治17年摂津国菟原郡津知村誌によると六条・才道・一の坪・新景(あらけ)保都(ほと)5つの小字が津知村にはあったと言われています。
明治17年津知村誌には津知川の存在の記載があります。
「本村の北に方る六甲山脈の渓間より起り、三条村の田圓に灌漑し、残水相会して本村に来る。人家の東辺に沿うて南流し、深江村を経て海に注ぐ。本村内延長百三十六間(約250m)、巾四尺(1.2m)。平時は細流にして、霖雨に激流を見る」とあります。小川だったようですが、地域の貴重な水であったでしょう、この地域に約224坪の新池があったとされていますが、現在は住宅が建っています。
さて、津知町は住民自治が昔から優れていました。
その拠点が津知公園です。盆踊りや地域の花見など中心はこの公園でした。
津知町は阪神・淡路大震災では被害の最も甚大だった地域だった、被災直後から津知公園には「テント村」が誕生し、自治活動で多くの人々が支えあったのです。津知の奇跡と私は呼んでいますが、この活動が起点となり、早期復興ができた礎になったことは言うまでもありません。
務めたのがテント村村長「故岡村昭三さん」平成7年6月から市議会議員として活躍されましたが、任期途中で病に倒れ、旅立たれました。「芦屋には市長もおるけど、村長もおるんやで・・」それが口ぐせでした。
岡村昭三さんは釣りとお酒とこの津知をこよなく愛する人でした。「いつもニコニコしていた笑顔」の岡村さん。今でも「はせやん・・これやれますかなぁ・・・」そんな声をこの津知公園に来ると思い出します。
その地域の記憶としてここに書き残したいと思います。
【参考文献】
芦屋市史 昭和46年版
芦屋市史 昭和31年版 本編
精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会
芦屋の地名を探る 文化振興財団
芦屋の里 島 之夫昭和4年
あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団
『芦屋郷土誌』細川道草、芦屋史談会1963年