あしや温故知新VOL154 「楠町」芦屋の地名シリーズ22
宮川より東側、国道2号線とJR東海道線の間に挟まれた細長の町がツツジの街路の美しい楠町です。
笄塚、堂ノ上、清水谷、深藪、山ノ神、中田、福地の7つの小字からできたもので、楠(くすのき)は芦屋を舞台にした歴史的な戦に関係するものです。
「あしや温故知新VOL54 大楠公戦跡打出浜の戦い」で紹介しましたが、この町にあるのが大楠公戦跡の碑があります。
碑は打出の東の端、国道2号線の北側。建武3年(1335年)2月10~11日の楠木正成と足利尊氏の打出合戦のとき、楠木正成がこの辺りに陣を張ったと言われています。
戦いの中心は打出浜から西宮浜にかけてという事らしいのですが、楠木正成が陣を張った場所とありますが、それを証明するものは存在していません。
1999年(平成11年)暮れから2000年春にかけての金津山古墳の発掘調査で、楠木正成が陣を張ったのは、この碑から 200m ほど南にある金津山古墳だとも考えられるという新説もあります。
実際、陣を張るには金津山古墳にあったとする方が合理的かも知れません。
どちらにしても、打出村は交通の要衝であったため、この頃たびたび戦いが起こっています。特に足利尊氏は打出合戦のあとも、1351年に足利直義と打出浜で戦っています。
このときの戦いは打出浜から御影浜にかけて16回も交戦を行ったという史実が残っています。
しかし、楠木正成は打出浜合戦の3ヶ月ほどあとに、九州から反撃に出てきた尊氏と神戸の湊川で再び合戦になり、敗れて戦死しています。
さて、歴史学者の調査を元に戦時中に村人たちによって、堂ノ上に楠公戦跡碑を建てられました。昭和19年(1944年)にこの戦跡碑を元に打出楠町となり、昭和43年の住居表示制度によって「楠町」となっています。
この小字名にある山ノ神六番地の丘墳上に小さな石祠があった。大山神でした。これが「打出の山の神」と呼ばれたものです。
墳上には数珠の松樹があり、毎年端午の節句日には農家は家の飼育牛を綺麗に手入れし、角には菖蒲で飾り、麦団子、チマキ一連と塩いわしなどを持ち、この祠に参拝したという風習がありました。この風習は明治以降全くすたれてしまいました。
(余話)
敵将の尊氏側の記録『梅松論』では、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」
「忠義に死すべし」という発想は当時の北朝方の武士たちにも感動させ、そのために正成は戦国、江戸、明治、大正、昭和、平成と長きにわたって生き続ける「忠臣」となったのです。
「命惜しむな、名こそ惜しめ。」(命よりも自らの名誉と志を守れ!太平記)が有名です。
ご本人がそう言ったのか検証できませんが、大楠公は永遠に不滅なのでしょう。
その史跡が芦屋市にも残っているのです。
【参考文献】
芦屋市史 昭和46年版
芦屋市史 昭和31年版 本編
精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会
芦屋の地名を探る 文化振興財団
芦屋の里 島 之夫昭和4年
あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団
『芦屋郷土誌』細川道草、芦屋史談会1963年
あしや子ども風土記 芦屋教育振興財団
芦屋郷土誌 細川道草