あしや温故知新VOL152 上宮川町芦屋の地名シリーズ21
昔の打出村を代表する川が宮川ですが、元は打出川や都川と呼ばれていました。
大正時代までは、川の両岸は松の木が多く蛍が飛び交う打出の人気スポットです。下流には金刀比羅神社(宮塚町)がありましたので、宮川と呼ばれるようになったと言われています。
打出村は明治以前から大きな集落が存在し、芦屋村・三条村・津知村とは規模も年貢も違った存在でした。
それは西国街道(浜街道)の分岐路が打出村だったことや、この上宮川町も西国街道の近くに位置しています。
昭和2年に国道2号線が開通し、国道に沿った上宮川町、茶屋之町、津知町など住宅地の造成が始まっています、
町名の上宮川町は字の通り、宮川の上流にあった地形によるものが由来です。
さてこの上宮川町には立派は神社とお寺があります。
ひとつは阿保天神社です。
御祭神;阿保大神(阿保親王)、在原業平大神、菅原大神(菅原道真)
例祭は12月1日で、明治6年(1873)村社になりました。
昭和27年6月に主神の菅原道真公のほかに阿保親王と在原業平を増祀して「阿保天神社」と改称しました。また、同様に六麓荘の氏神、大国神社も合祀されており、境内に摂末社として立派な鳥居も現存しています。
芦屋の生活文化史(1979年発行)によると、この町にある照善寺が紹介されています。それによると開基は明らかではないが、元禄5年の寺社改帳によれば、かつては辻本道場といって説教所のようなものであった。享保17年(1732年)に釈昇道という僧侶が本山の京都西本願寺から阿弥陀如来の立像を乞いうけて本尊とし、光明山照善寺を号して正式の寺とされています。
寛政4年(1792年)大火のため焼失し、旧記一切を失っています。
昭和20年8月5日の阪神大空襲により隣接していた阿保天神社と同様に建物は全焼しましたが、いち早く復旧しました。
阪神大空襲の戦災から素早く再建・復興の道へ進んだのは、寺社仏閣への地域の人たちの精神的な支えになっていたことが生活の一部になっていた時代です。地域が起した奇跡のとして後に発生した阪神淡路大震災後の時には前例として生かされました。
歴史書では数行の文字でしかありません。
しかし、その数字に込められた多くの人たちの思いは語りつぐしかありません。
【参考文献】
打出史話 発行 兵庫県武庫郡精道村 著者 天王寺谷勘太夫 昭15 ・6発刊
芦屋市史 昭和46年版
芦屋市史 昭和31年版 本編
精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会
芦屋の地名を探る 文化振興財団
芦屋の里 島 之夫昭和4年
あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団
『芦屋郷土誌』細川道草、芦屋史談会1963年